Re: 的を得た×?的を射た◯?
投稿者: uso_ha_ikemasen_ne 投稿日時: 2009/03/06 16:01 投稿番号: [5094 / 11357]
>>う〜〜む、確かに的を得た記事ですね。
>的を得た×
的を射た◯
日本語講座の講師がこれですか?
これじゃぁ笑われてもしかたないね。プッ。 <
↑
kazekozou555 くんは、漢字に強い国のお方のようだね。(笑
以下、コピペですが、参考までに。
この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。
これはよく流布している無知からきています。
射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。
これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。
語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。
この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。
矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。
たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。
諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現をしています。
「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。
そうでなくても、もともと「得」という字には「あたる」という意味があります(白川静の前掲書)。
いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。
「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。
また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。
古いですが、『徒然草92段』或人、弓射る事を習ふに、
諸矢をたばさみて的に向ふ。
師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。
後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。
毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ……
ここに見られる「得失」はいわゆる損得ではなく、的に当たること(得)と当らなかったこと(失)を指しています。
「得失は、矢が的に的中する、的中しないの意と解する通説」とあります(『新明解古典シリーズ・徒然草』監修・桑原博史。書いてある通釈では得失を「当たるといいな、外れたらどうしよう」としています)。
漢文の素養が豊かな吉田兼好には、的を得る・失うは、自然な表現だったとおもわれます。
なお、鳥取藩一貫流弓術の文献では、12,22ページに、的に当たらないことを「正中を得ず」、23ページには「心中を不得」と書いています。
また石川啄木は「我等の一團と彼」という文章で「兩面から論じなくちやあ議論の正鵠は得られない」という表現を使っています。
つまり「得る」ということばに「当る」の意味があるということです。
また読者から教示していただいて分かったのは、現代の中国でも「正鵠を得る」という表現があることです。
王鳳賢著の中国語論文「毛澤東的倫理思想及其傳統文化背景 」に、人人皆得其正鵠矣(じんじんみなそのせいこくをえたり)と(ちなみに、明治書院の漢文大系『中庸』には正鵠に(まと)という読み仮名をあてています。)。
教示に刺激されて調べたら、幸田露伴の『武田信玄』の中の一説に「無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である……」とありました。
的を射る、という行為が、すなわち的に「当たる」ことを意味しないのは、『大鏡』の道長と伊周が競射する場面を読むとよく判ります。
わたしは「正鵠を射る」や「的を射る」という表現を誤っていると言っているのではなく、たんに「的を得る」という表現がまちがいである、ということに抗議しているだけです。
ことばは生き物です。時代によって変化するものであるという事を理解して下さい。(笑
>的を得た×
的を射た◯
日本語講座の講師がこれですか?
これじゃぁ笑われてもしかたないね。プッ。 <
↑
kazekozou555 くんは、漢字に強い国のお方のようだね。(笑
以下、コピペですが、参考までに。
この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。
これはよく流布している無知からきています。
射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。
これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。
語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。
この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。
矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。
たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。
諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現をしています。
「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。
そうでなくても、もともと「得」という字には「あたる」という意味があります(白川静の前掲書)。
いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。
「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。
また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。
古いですが、『徒然草92段』或人、弓射る事を習ふに、
諸矢をたばさみて的に向ふ。
師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。
後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。
毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ……
ここに見られる「得失」はいわゆる損得ではなく、的に当たること(得)と当らなかったこと(失)を指しています。
「得失は、矢が的に的中する、的中しないの意と解する通説」とあります(『新明解古典シリーズ・徒然草』監修・桑原博史。書いてある通釈では得失を「当たるといいな、外れたらどうしよう」としています)。
漢文の素養が豊かな吉田兼好には、的を得る・失うは、自然な表現だったとおもわれます。
なお、鳥取藩一貫流弓術の文献では、12,22ページに、的に当たらないことを「正中を得ず」、23ページには「心中を不得」と書いています。
また石川啄木は「我等の一團と彼」という文章で「兩面から論じなくちやあ議論の正鵠は得られない」という表現を使っています。
つまり「得る」ということばに「当る」の意味があるということです。
また読者から教示していただいて分かったのは、現代の中国でも「正鵠を得る」という表現があることです。
王鳳賢著の中国語論文「毛澤東的倫理思想及其傳統文化背景 」に、人人皆得其正鵠矣(じんじんみなそのせいこくをえたり)と(ちなみに、明治書院の漢文大系『中庸』には正鵠に(まと)という読み仮名をあてています。)。
教示に刺激されて調べたら、幸田露伴の『武田信玄』の中の一説に「無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である……」とありました。
的を射る、という行為が、すなわち的に「当たる」ことを意味しないのは、『大鏡』の道長と伊周が競射する場面を読むとよく判ります。
わたしは「正鵠を射る」や「的を射る」という表現を誤っていると言っているのではなく、たんに「的を得る」という表現がまちがいである、ということに抗議しているだけです。
ことばは生き物です。時代によって変化するものであるという事を理解して下さい。(笑
これは メッセージ 5087 (kazekozou555 さん)への返信です.
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