ネット世代のナショナリズム
投稿者: parkavenuecanada 投稿日時: 2007/06/01 03:38 投稿番号: [96899 / 99628]
と題して、ここの諸君の問題が5月30日付朝日新聞で組まれてました。その中で小倉紀蔵京都大学大学院准教授の意見が興味深いです。
小倉教授によれば、
>日本人は日本社会がバブル崩壊と極端なポストモダン化によって「劣化」したと認識した 〜(中略)〜 韓流と嫌韓流は、「ポストモダン化によって解体された主体を取り戻す」という点で共通する
ということです。
なるほど、たしかに、『新しい歴史教科書を作る会』の登場もニューアカデミズムが浸透したバブル崩壊後で、その逆境にあって、かれらはさかんに“日本人としての誇り”という「主体」に訴え、その拠り所を自己愛的な歴史観に置いたわけです。嫌韓論者の歴史観が『作る会』とほぼ完全に同調している事実から、この分析は正しいといえます。
かれらがしてるのは、ポストモダンな社会をもう一度モダンなそれへと戻そうという反動的運動ですが、一方、社会学者の宮台真治は、ポストモダンな「劣化」した社会の中では、虚構にすぎない「主体」の構築を志向するのではなく、過剰に氾濫する等価なアイテムに“戯れ”るスキルを身に付けるのが重要だと喝破し、極論すればブルセラ援交女子高生的生き方を肯定「的」に評価しました。(未成年の売春を肯定したわけではない)
宮台的な発想では、“近代”という大きな物語が終焉した後の“終り無き日常”という退屈な社会を生きるために、これにふさわしい“戯れ”という、いかにもポストモダン的な振る舞いを推奨するわけですが、小倉教授は現在の日韓問題において、もう少し真面目に以下の視点を導入します。
まず、
>韓流は「東アジアとの連帯」、嫌韓流は「日本の主張を堂々と語る」という逆の方向で思想を実践する。文化の越境は直線的には進まない。相手のアイデンティティとの出会いは、衝突を引き起こし、反日、嫌韓が台頭し、両国関係が悪化することもある
と現状を危惧した上、
>日中韓はどのような価値を共有し共同体を形成したらいいのか
といって、次の処方箋を提示するのです。
>「多重的な主体性」という人間性を示したい。たとえば歴史問題について、各国、各陣営は、自らの論の正しさを貫くためにも、「人間」というものを単純化し一枚岩のものだとみなしてきた。しかし、加害者も被害者も、心の内面は単純ではなく、複雑で多重なのだ
つまり、「加害」と「被害」という交流困難な対立軸(=近代的冷戦的な産物)を全面に出すよりも、ポストモダンな柔軟性から両者の「多重」を見抜き、そこから普遍化を図り、歴史と人間の理解に迫る態度こそが和解に繋がり、ひいては日中韓の「価値を共有し共同体の形成」へと近づく、とこういことですが、となると、ふむ、人間の「多重性」を排除して絶対的な善人という“神”の視点で語られた諸君のバイブル漫画では、このような「多重」性は隠蔽され、「日本の主張を堂々と語る」という硬直した「思想の実践」に留まるわけです。
それに対して、小倉教授が与えるヒントは、「主張」の前にモダンな固着概念を捨て去り、人間を「多重」な存在として捉え、そこから対象を自分に返して理解に繋げよ、とこういうことですね。
(もちろん、反韓国の諸君だけでなく、韓国側の諸君にもいえることです。私は反反韓国なので、関係ありませんが)
小倉教授によれば、
>日本人は日本社会がバブル崩壊と極端なポストモダン化によって「劣化」したと認識した 〜(中略)〜 韓流と嫌韓流は、「ポストモダン化によって解体された主体を取り戻す」という点で共通する
ということです。
なるほど、たしかに、『新しい歴史教科書を作る会』の登場もニューアカデミズムが浸透したバブル崩壊後で、その逆境にあって、かれらはさかんに“日本人としての誇り”という「主体」に訴え、その拠り所を自己愛的な歴史観に置いたわけです。嫌韓論者の歴史観が『作る会』とほぼ完全に同調している事実から、この分析は正しいといえます。
かれらがしてるのは、ポストモダンな社会をもう一度モダンなそれへと戻そうという反動的運動ですが、一方、社会学者の宮台真治は、ポストモダンな「劣化」した社会の中では、虚構にすぎない「主体」の構築を志向するのではなく、過剰に氾濫する等価なアイテムに“戯れ”るスキルを身に付けるのが重要だと喝破し、極論すればブルセラ援交女子高生的生き方を肯定「的」に評価しました。(未成年の売春を肯定したわけではない)
宮台的な発想では、“近代”という大きな物語が終焉した後の“終り無き日常”という退屈な社会を生きるために、これにふさわしい“戯れ”という、いかにもポストモダン的な振る舞いを推奨するわけですが、小倉教授は現在の日韓問題において、もう少し真面目に以下の視点を導入します。
まず、
>韓流は「東アジアとの連帯」、嫌韓流は「日本の主張を堂々と語る」という逆の方向で思想を実践する。文化の越境は直線的には進まない。相手のアイデンティティとの出会いは、衝突を引き起こし、反日、嫌韓が台頭し、両国関係が悪化することもある
と現状を危惧した上、
>日中韓はどのような価値を共有し共同体を形成したらいいのか
といって、次の処方箋を提示するのです。
>「多重的な主体性」という人間性を示したい。たとえば歴史問題について、各国、各陣営は、自らの論の正しさを貫くためにも、「人間」というものを単純化し一枚岩のものだとみなしてきた。しかし、加害者も被害者も、心の内面は単純ではなく、複雑で多重なのだ
つまり、「加害」と「被害」という交流困難な対立軸(=近代的冷戦的な産物)を全面に出すよりも、ポストモダンな柔軟性から両者の「多重」を見抜き、そこから普遍化を図り、歴史と人間の理解に迫る態度こそが和解に繋がり、ひいては日中韓の「価値を共有し共同体の形成」へと近づく、とこういことですが、となると、ふむ、人間の「多重性」を排除して絶対的な善人という“神”の視点で語られた諸君のバイブル漫画では、このような「多重」性は隠蔽され、「日本の主張を堂々と語る」という硬直した「思想の実践」に留まるわけです。
それに対して、小倉教授が与えるヒントは、「主張」の前にモダンな固着概念を捨て去り、人間を「多重」な存在として捉え、そこから対象を自分に返して理解に繋げよ、とこういうことですね。
(もちろん、反韓国の諸君だけでなく、韓国側の諸君にもいえることです。私は反反韓国なので、関係ありませんが)
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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