> 惨めな勘違い
投稿者: vaio6253 投稿日時: 2004/02/07 23:17 投稿番号: [86612 / 99628]
(既にヨパラーイで、省エネ的に。笑い)
他トピより。
産経新聞の連載記事紹介。
【「次は朝鮮半島」の危機感】
司馬遼太郎氏は産経新聞今日と支局の記者時代、大学を担当していた。しかし、昭和二十年代に隆盛しつつあった学生運動については「あれは義和団のようなものだ」と無視し、取材の対象としなかったと言われる。
義和団とは明治33年(1900)2月、欧米帝国主義妥当を掲げて蜂起した清国の振興宗教団体である。
西欧列強の利権競争に反発する民衆の支持をバックにキリスト教会を焼き討ちするなどしながら山東省から北京に向けて北上、清国政府もバックアップするようになった。
6月までには北京、天津を支配下におさめ、北京の各公使館を包囲してしまった。
これに対し、北京に公使を置く日本、ロシア、イギリスなど11カ国が軍事行動に移る。そして8月14日には、日本の陸軍第五師団を主力とした列強連合軍が北京を制圧した。日本では北清事変とも呼ばれている。
この結果、清国は派兵などした11ヶ国に対し賠償金を支払ったほか、公使館の軍備や自由交通の確保の名目で、各国軍隊の駐留を認めざるを得ず、半植民地化が一段と強まった。
(略)
しかし義和団の変が招いたのは列強の跋扈ばかりではなかった。
自らの領土だった満州の地で、日本とロシアが死闘を繰り広げると言う日露戦争の引き金ともなってしまったのだ。
きっかけはロシア軍による満州制圧と居座りだった。北清事変最中の明治33年7月、義和団の勢力は満州にまで及び、ロシアが清から権利を得てこの地に建設中だった東清鉄道へも攻撃を始めた。ロシア軍はこれを待っていたかのようにシベリアから一気に満州に攻め込んだのである。
そして11カ国と清国との講和がなった後も満州から出ていかない。
当時いくら日清戦争に勝ち、北清事変で見事な働きをしたとはいえ東洋の小国日本が、大国ロシアに単独で抗議するなど大胆な話だった。元タイ大使、岡崎久彦氏は、英国の歴史学者、イアン・ニッシュの言葉を借り「若い日本の『成人式』だった」と書いている(「小村寿太郎とその時代」)。
近代日本が初めて自立国家として、自国の安全のために動いたと言う意味だろう。日本はそれほどロシアの満州占領を恐れていた。
いやそうではなく、満州の次に陸続きである朝鮮半島がロシアの手に落ちることに対し、全身の神経をとがらせていたのだ。
雑誌「明日への選択」の今年1月号のインタビューで、明大教授、入江孝則氏は、20世紀初頭の英国の地政学者、マッキンダーの海洋国家論を紹介し、日露戦争に至る日本の安全保障を論じている。
地中海のクレタ島を根拠地としていた海洋国家・古代ギリシャが、大陸国家のペルシャに勝ったのは対岸のペロポネソス半島をおさえていたからだった。
ところがその後、同じ大陸国家のマケドニアにその半島を握られたときには、海洋国家は滅びるしかなかったという。
それほど海洋国家にとって、大陸とを結ぶ半島は重要なのである。
その上で、入江氏は「海洋国家である日本が繁栄するためには朝鮮半島が、日本に敵対する可能性のある(大陸国家の)ロシアや清帝国によって支配されないようにすることを明治の日本人がきちんと考えていた」と述べ、「驚嘆に値する安全感覚だ」と言う。
そのことは、半島の北半分に旧ソ連や中国の影響を受けた独裁国家ができたことが今、日本の安全保障の最重要関心事となっていることからも理解できるだろう。歴史はあまり変わっていない。
ロシアは日本の抗議に何度も撤退を約束しながらその都度反故にする。それが、三国干渉での恨みや「臥薪嘗胆」の合言葉と重なって、日本をいよいよ「ロシア討つべし」へかりたてたのだ。
他トピより。
産経新聞の連載記事紹介。
【「次は朝鮮半島」の危機感】
司馬遼太郎氏は産経新聞今日と支局の記者時代、大学を担当していた。しかし、昭和二十年代に隆盛しつつあった学生運動については「あれは義和団のようなものだ」と無視し、取材の対象としなかったと言われる。
義和団とは明治33年(1900)2月、欧米帝国主義妥当を掲げて蜂起した清国の振興宗教団体である。
西欧列強の利権競争に反発する民衆の支持をバックにキリスト教会を焼き討ちするなどしながら山東省から北京に向けて北上、清国政府もバックアップするようになった。
6月までには北京、天津を支配下におさめ、北京の各公使館を包囲してしまった。
これに対し、北京に公使を置く日本、ロシア、イギリスなど11カ国が軍事行動に移る。そして8月14日には、日本の陸軍第五師団を主力とした列強連合軍が北京を制圧した。日本では北清事変とも呼ばれている。
この結果、清国は派兵などした11ヶ国に対し賠償金を支払ったほか、公使館の軍備や自由交通の確保の名目で、各国軍隊の駐留を認めざるを得ず、半植民地化が一段と強まった。
(略)
しかし義和団の変が招いたのは列強の跋扈ばかりではなかった。
自らの領土だった満州の地で、日本とロシアが死闘を繰り広げると言う日露戦争の引き金ともなってしまったのだ。
きっかけはロシア軍による満州制圧と居座りだった。北清事変最中の明治33年7月、義和団の勢力は満州にまで及び、ロシアが清から権利を得てこの地に建設中だった東清鉄道へも攻撃を始めた。ロシア軍はこれを待っていたかのようにシベリアから一気に満州に攻め込んだのである。
そして11カ国と清国との講和がなった後も満州から出ていかない。
当時いくら日清戦争に勝ち、北清事変で見事な働きをしたとはいえ東洋の小国日本が、大国ロシアに単独で抗議するなど大胆な話だった。元タイ大使、岡崎久彦氏は、英国の歴史学者、イアン・ニッシュの言葉を借り「若い日本の『成人式』だった」と書いている(「小村寿太郎とその時代」)。
近代日本が初めて自立国家として、自国の安全のために動いたと言う意味だろう。日本はそれほどロシアの満州占領を恐れていた。
いやそうではなく、満州の次に陸続きである朝鮮半島がロシアの手に落ちることに対し、全身の神経をとがらせていたのだ。
雑誌「明日への選択」の今年1月号のインタビューで、明大教授、入江孝則氏は、20世紀初頭の英国の地政学者、マッキンダーの海洋国家論を紹介し、日露戦争に至る日本の安全保障を論じている。
地中海のクレタ島を根拠地としていた海洋国家・古代ギリシャが、大陸国家のペルシャに勝ったのは対岸のペロポネソス半島をおさえていたからだった。
ところがその後、同じ大陸国家のマケドニアにその半島を握られたときには、海洋国家は滅びるしかなかったという。
それほど海洋国家にとって、大陸とを結ぶ半島は重要なのである。
その上で、入江氏は「海洋国家である日本が繁栄するためには朝鮮半島が、日本に敵対する可能性のある(大陸国家の)ロシアや清帝国によって支配されないようにすることを明治の日本人がきちんと考えていた」と述べ、「驚嘆に値する安全感覚だ」と言う。
そのことは、半島の北半分に旧ソ連や中国の影響を受けた独裁国家ができたことが今、日本の安全保障の最重要関心事となっていることからも理解できるだろう。歴史はあまり変わっていない。
ロシアは日本の抗議に何度も撤退を約束しながらその都度反故にする。それが、三国干渉での恨みや「臥薪嘗胆」の合言葉と重なって、日本をいよいよ「ロシア討つべし」へかりたてたのだ。
これは メッセージ 86611 (hidarino5 さん)への返信です.
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