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日本(倭)国の誇らしい歴史!3

投稿者: kessekijp 投稿日時: 2003/09/11 13:16 投稿番号: [83601 / 99628]
日本(倭)はアメリカの付属品。爆笑。爆笑。

「ヘイ、ジョン、日本の女はすぐに泣き叫ぶんだ。イッツァーイ! イッツアーイ!ってなぁ。」

1945年8月15日、昭和天皇の終戦の詔勅によって戦争が終わりました。占領軍は、先ず先遣隊2300人が8月28日神奈川県厚木に到着。次にマッカーサー元帥が8月30日に到着。更に半月の間に約12万人。10月末には約30万人の将兵が進駐しています。
日本政府はどのようにして占領軍を迎えたらよいか全く予測のできない状況の中で、米軍から次々に出される命令に対応してきました。東京では8月28日に内務省や警視総監了解の下に売春業者たちによって「RAA」(特殊慰安施設協会)が設立され、最初の 慰安所「小町園」が大森に開設されました。そこに集められた慰安婦は約30人でした。*RAA (Recreation and Amusement Association)
慰安婦たちは、「お国のために日本女性を守る性の防波堤」になるという悲壮な決意の下に、RAA幹部たちが発する涙のバンザイの連呼に送られてトラックで小町園に到着しました。最初の「お客」(米兵)は早くも28日の夜現れたそうです。
しかしながら、これは充分な性の防波堤にはなりませんでした。 占領軍が進駐した地域では慰安所があっても米兵によるレイプ事件が8月30日から頻繁に起りはじめました。基地周辺の家々は軒並み米兵に踏み込まれて、男たちは縛られるかピストルを突きつけられる間に女たちがレイプされるのです。白昼公道において婦人牧師が押し倒されて公衆の前でレイプされましたが、だれも助けようとする人はなく、みな足早やに逃げ去ったこともあります。道を歩いている娘や人妻たちを後ろからジープが来て拉致して、淋しいところでレイプした例も少なからず発生しました。昼も夜もそれは起りました。米軍基地に勤務する女性たちは基地の内部でも外部でも目をつけられて頻繁に辱しめられましたが、私の場合と同じように家族を餓死から救うために勤務を辞めることができず、耐え忍んでいました。
こうしたレイプ事件の頻発に対してMP(Military Police)とか SP(Shore Patrol)とかいう米軍の憲兵たちは見て見ぬふりをしていたし、彼ら自身がレイプする有様なので、取り締まることが出来ませんでした。日本の警察官は戦後全く無力な状態で全く頼りにならず、彼らの中には米兵の手引きをしてレイプの手伝いをする者もいました。そして、こうした事件の数々は9月はじめまではいくつか新聞記事として報じられましたが、間もなくプレスコードが発令されて報道禁止となりました。だから、「米軍の日本進駐はきわめて紳士的に行われた」というのは占領軍のご機嫌を伺う神話に過ぎません。
このような状況下で、GHQ(連合国軍総司令部:General Head Quarters)は9月はじめに連合軍用慰安施設の設置を命令し、全 国各地に慰安所が売春業者(RAA)によって開設されていきました。占領期間中は、「GHQの命により」とか「ジェネラル・マッカーサーの命により」とかいう文言は一種のマジックのような絶対的権威があって、絶対服従しなければならないものでした。
しかし、この命令も半年で撤回されたのです。その原因は米軍将兵が南方の戦場から持って来た性病が慰安婦たちに感染し、 手のつけられないほど蔓延したからです。

パンパンとはインドネシア語で「女」を意味する「プロムパン」のなまったものではないかといわれています。パンパンにも二種類あって、特定の軍人を相手にするオンリーと不特定多数の軍人を相手にするバタフライとがありました。彼らはみな例外なく精神的にも肉体的にも病んで、虐げられて、短期間で死を迎えるのですが、後から後から身をもちくずしてパンパンになる人たちが絶え間なく補充されていったのは、その大多数が占領軍兵士による暴行の結果だといわれています。

(「日本の貞操」−外国兵に犯された女性たちの手記− 水野 浩編 1953年 蒼樹社刊   参照)

誇らしいお前らの歴史に爆笑!!!!!!!!
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