趙成萊、強制連行だった(と言い出しそう)
投稿者: tohrisugary 投稿日時: 2003/07/08 15:21 投稿番号: [82210 / 99628]
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=070000&biid=2003070795008
趙成萊「夢はあきらめたが、永遠に野球人」
「インタビューをお願いしたいんですが」
「いいですよ。これからは新聞に名前が載ることもなさそうだから…」
マスコミとの接触を嫌う趙成萊(30)とのインタビューの約束は意外に簡単に取れた。
プロ野球の新人2次指名翌日、ソウル道谷洞にある個人事務所で会った彼は「私の野球人生を整理する意味で一度インタビューを受けるのもいいかもしれませんね」と話しながら、記者を喜んで迎えてくれた。
インタビューは2時間程、続けられた。
彼の野球人生をまとめるのには短い時間だったが、物静かに過去のことを振り返った。
信一高校時代、彼はいわゆる「ビッグ3」の1人だった。
91年、鳳凰旗と黄金獅子旗2冠王に導いた彼を含め、徽文高校の林仙東(現代)と京畿高校のソン・ギョンス(斗山)が投手の「ビッグ3」だった。
公州高校の朴贊浩(テキサス・レンジャーズ)は球は速かったが、彼らより低く評価された。(中略)
趙成萊は朴贊浩に対する質問に失望の表情を見せた。
「高校の時は本当に親しかったんです。お互いに電話もよくして…。彼が漢陽大学に入った後もそうした関係は続いたんですが、決定的に『裏切られた』と言う気持ちを抱くようになったのはLAドジャーズに入団したときです。出国する日まで、ドジャーズ行きのことについて一言も話さなかったんです。私は友達と思っていましたが、彼はそうではなかったようです」
95年、日本最高の名門球団である読売ジャイアンツに入団した趙成萊は、98年に最初で最後の全盛期を謳歌した。
出場ごとに完投完封。
最高時速149kmの剛球にフォークボール、そしてシンカーが威力的だった。
シーズン前半で7勝(6敗)を記録し、読売ジャイアンツのエースになった。
しかし7月23日、千葉マリンスタジアムで開かれた運命のオールスター戦。
「その年5月末から腕の調子が良くなかったんです。前半で完投勝利が6回。そのうち、完封勝ちが3回でした。無理をしたわけです」
その後遺症がすぐ現われた。
「最後の1イニングを投げることになったんです。それでバッターを三振にとるため直球を投げたんですが、投げた直後『プツン』という感じが腕にしたんです。ところが9回裏で我がチームが同点に追いついて、延長戦でまたマウンドに上がらなければならなくなったんです」
延長10回表、先頭バッターを三振で片付けたが、そのとき再び腕を捻った。
次はストレートの四球。
オールスター戦でセリーグの投手コーチをした近藤監督(当時、横浜ベイスターズ)がマウンドに出てきた。
「これ以上投げられませんと言ったんです。ところが近藤監督は、私の日本語が聞き取れなかったふりをしたんです。下心は知れていました。次の投手が佐々木(当時は横浜ベイスターズ。現在はシアトルマリナーズ)しかいなかったんですが、自チームの投手を惜しんだんですよ」
彼は靭帯の切れた腕で再び投げ始めた。
球速が110km前後に落ちた。
けがをした腕でスピードの出せるはずがない。
その年2度とマウンドに上がることができなかった。
代わりにうんざりするほどのリハビリが待っていた。
肘の靭帯移植手術、突き出た骨の除去手術など二度の手術を受けなければならなかったし、リハビリと試合出場を繰り返した。
趙成萊は昨年10月、読売を自ら辞めた。
契約期間が1年残っていたが、読売のそれとなく差別するのが嫌だったし、新しい環境が必要だった。
「米国へ行って楽しく野球をしたい。二度と日本へは来ない。出してくれ」と読売側を説得した。
しかし、妻(崔眞實)との喧嘩など複雑な家庭内のトラブルが起きたうえ、3月に2番目の子供も生まれ、米国のスプリングキャンプに合流しようとしていた計画はお流れとなった。
国内でも野球をしたかった。
4月29日プロ野球新人ドラフトに申請をしたのもそのためだ。
しかし、1次指名権を持っている斗山とLGがそっぽを向いた。
趙成萊は6月30日、2次ドラフトを前日に控えて自らドラフト申請を撤回した。
「最小限のプライドを守りたかったんです。2次指名を控えて現代とLGが関心を示してきたが積極的ではなかったんです。『これもうまく行かないなあ』という気がしました。2次指名で最下位に指名されたって、何の意味がありますか」
趙成萊は最近、読売に意思を打診してみたと打ち明けた。
しかし読売は「今すぐどの程度投げられるのかを見せてくれ」と言った。
訓練もまともにしなかった状態で、今すぐボールをまともに投\xA4
趙成萊「夢はあきらめたが、永遠に野球人」
「インタビューをお願いしたいんですが」
「いいですよ。これからは新聞に名前が載ることもなさそうだから…」
マスコミとの接触を嫌う趙成萊(30)とのインタビューの約束は意外に簡単に取れた。
プロ野球の新人2次指名翌日、ソウル道谷洞にある個人事務所で会った彼は「私の野球人生を整理する意味で一度インタビューを受けるのもいいかもしれませんね」と話しながら、記者を喜んで迎えてくれた。
インタビューは2時間程、続けられた。
彼の野球人生をまとめるのには短い時間だったが、物静かに過去のことを振り返った。
信一高校時代、彼はいわゆる「ビッグ3」の1人だった。
91年、鳳凰旗と黄金獅子旗2冠王に導いた彼を含め、徽文高校の林仙東(現代)と京畿高校のソン・ギョンス(斗山)が投手の「ビッグ3」だった。
公州高校の朴贊浩(テキサス・レンジャーズ)は球は速かったが、彼らより低く評価された。(中略)
趙成萊は朴贊浩に対する質問に失望の表情を見せた。
「高校の時は本当に親しかったんです。お互いに電話もよくして…。彼が漢陽大学に入った後もそうした関係は続いたんですが、決定的に『裏切られた』と言う気持ちを抱くようになったのはLAドジャーズに入団したときです。出国する日まで、ドジャーズ行きのことについて一言も話さなかったんです。私は友達と思っていましたが、彼はそうではなかったようです」
95年、日本最高の名門球団である読売ジャイアンツに入団した趙成萊は、98年に最初で最後の全盛期を謳歌した。
出場ごとに完投完封。
最高時速149kmの剛球にフォークボール、そしてシンカーが威力的だった。
シーズン前半で7勝(6敗)を記録し、読売ジャイアンツのエースになった。
しかし7月23日、千葉マリンスタジアムで開かれた運命のオールスター戦。
「その年5月末から腕の調子が良くなかったんです。前半で完投勝利が6回。そのうち、完封勝ちが3回でした。無理をしたわけです」
その後遺症がすぐ現われた。
「最後の1イニングを投げることになったんです。それでバッターを三振にとるため直球を投げたんですが、投げた直後『プツン』という感じが腕にしたんです。ところが9回裏で我がチームが同点に追いついて、延長戦でまたマウンドに上がらなければならなくなったんです」
延長10回表、先頭バッターを三振で片付けたが、そのとき再び腕を捻った。
次はストレートの四球。
オールスター戦でセリーグの投手コーチをした近藤監督(当時、横浜ベイスターズ)がマウンドに出てきた。
「これ以上投げられませんと言ったんです。ところが近藤監督は、私の日本語が聞き取れなかったふりをしたんです。下心は知れていました。次の投手が佐々木(当時は横浜ベイスターズ。現在はシアトルマリナーズ)しかいなかったんですが、自チームの投手を惜しんだんですよ」
彼は靭帯の切れた腕で再び投げ始めた。
球速が110km前後に落ちた。
けがをした腕でスピードの出せるはずがない。
その年2度とマウンドに上がることができなかった。
代わりにうんざりするほどのリハビリが待っていた。
肘の靭帯移植手術、突き出た骨の除去手術など二度の手術を受けなければならなかったし、リハビリと試合出場を繰り返した。
趙成萊は昨年10月、読売を自ら辞めた。
契約期間が1年残っていたが、読売のそれとなく差別するのが嫌だったし、新しい環境が必要だった。
「米国へ行って楽しく野球をしたい。二度と日本へは来ない。出してくれ」と読売側を説得した。
しかし、妻(崔眞實)との喧嘩など複雑な家庭内のトラブルが起きたうえ、3月に2番目の子供も生まれ、米国のスプリングキャンプに合流しようとしていた計画はお流れとなった。
国内でも野球をしたかった。
4月29日プロ野球新人ドラフトに申請をしたのもそのためだ。
しかし、1次指名権を持っている斗山とLGがそっぽを向いた。
趙成萊は6月30日、2次ドラフトを前日に控えて自らドラフト申請を撤回した。
「最小限のプライドを守りたかったんです。2次指名を控えて現代とLGが関心を示してきたが積極的ではなかったんです。『これもうまく行かないなあ』という気がしました。2次指名で最下位に指名されたって、何の意味がありますか」
趙成萊は最近、読売に意思を打診してみたと打ち明けた。
しかし読売は「今すぐどの程度投げられるのかを見せてくれ」と言った。
訓練もまともにしなかった状態で、今すぐボールをまともに投\xA4
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834688/4z9qa4ua46a41a4sa4j_1/82210.html