なにやら(横やり)
投稿者: butaru2002 投稿日時: 2003/02/15 00:02 投稿番号: [75587 / 99628]
よく分からない話になっていらっしゃいます。
アイデンティティーの定義はjigokunokootaisiさんの75536の発言で別に違和感はありません。アイデンティティーは自分が何者であるかの問いかけから生ずる自己規定でしょうから、それでいいと思います。ただし「確立できる」とすると未来形になるのが気がかりですが。
一方、「主体である本人の帰属制」というフラワーチャーミングさんの見方は地獄の皇太子さんよりも狭いもので、場合によってはちょっと都合が悪い部分もあるかもしれません。
社会的理想的自我、など、自己心理学でいろいろ用語が出てくるように、アイデンティティーは帰属ではくくれない社会認知の側面からの自己意識も関係する概念としなければならず、「帰属」そのものがアイデンティティーの概念としてはどうでしょうか。
ようするに自分はなんであり、どういう自分であろうとするか、そういうことになるのでは?
いずれにせよ、
>半島の人間より、かわいそうだと思います。アイデンティティーがどこにもないわけですから…。 (フラワーさん)
この用法はちょっとまずいかと思います。在日には在日としての各自の民族的アイデンティティー、社会的自我、集団としての対社会的アイデンティティー、様々な様相で、自我意識はいくらでも確立し、存在しているのです。
一方、哲学用語でベクトルが「向きを持った量」で通用しているかどうかは知りません。数学以外で、哲学関係の誰かがこの言葉を使っているのはどこかで見たことはありますが、意識において「量」というものが何であるかについて、私にはよく分かりません。それが哲学において「量」で規定されて通用しているのかも知りません。
なにも、哲学とおっしゃらず、普通にベクトルとおっしゃるのなら、普通に「意識の方向性」程度で充分に分かります。
ですから、哲学とおっしゃるのなら、この部分は私はパスです。qm0x0mpさんにいろいろな哲学者の使用例を紹介していただき理解するしかなさそうです。
それはそうと、みなさん、なにをおっしゃりたいのですか。
これは メッセージ 75581 (chon_no_inai_nippon88 さん)への返信です.
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