1934年の第2回W杯
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/08/13 23:38 投稿番号: [64428 / 99628]
http://www.calcio2002.com/mag/serial/degli/01.html
優勝を義務付けられていたファシズム時代のアッズーリ
1934年の第2回W杯はイタリア開催。ムッソリーニにとってはまさに格好の国威発揚の場であった。この時代、サッカーの母国を認ずるイングランドは、相変わらずW杯の重要性を無視。“サッカー後進国”と競うことを拒否し、不参加を表明していた。第1回大会優勝のウルグアイも参加を拒否(イタリアがウルグアイでの第1回大会への参加を拒否したことへのしっぺ返しの意味もあったが、国内紛争でスポーツどころではなかったというのが実際のところ)。W杯の歴史がスタートして間もない頃の話である。サッカーにおいても、まだ五輪のほうが重要視されていた時代。大会はローマ、ミラノ、トリノ、フィレンツェ、ボローニャ、ナポリ、トリエステの7会場で繰り広げられた。トリエステのスタジアムなどは大会前、3カ月間の突貫工事で建てられたものであった。
準々決勝ではサモーラを擁するスペインとフィレンツェで対戦。90分を終わって1−1。30分間の延長戦でもカタが付かず、当時はPK戦という規定がなかったため、24時間後に再戦ということになった。
翌日も死闘が繰り返された。地元イタリアに勝利をもたらしたのはメアッツァのゴールであった。前半12分、オルシのCKをヘッドで決めたもの。1−0の僅差で難敵スペインを退け、当時の宿敵オーストリアとの準決勝に臨んだ。場所はミラノ。イタリアには“ホームの利”があった。しかし、イタリアには恐怖感が付きまとっていた。オーストリアに対する苦手意識が強く根ざしていたのだ(それまで13回対戦して8回負けている)。
懸念していたとおり、アッズーリは苦戦を強いられた。驚異のスピードを誇るCF、シンドラーの突破力にモンティ(シンドラーのマーカー)は何度か置き去りにされた。しかし、先制点を挙げたのはアッズーリ。前半19分、スキアーヴィオがエリア外から強烈なシュートを放った。オーストリアGKプラッツァーが弾いたボールをメアッツァが拾い、シュート! GKの手からこぼれたボールを走り込んできたグアイータが無人のゴールにプッシュし、アッズーリは貴重なゴールを挙げたのである。そして、ゲーム終盤、必死に守るイタリアDF陣、GKコンビの神がかりのセービングでオーストリアの猛攻を防ぎ、イタリアは決勝に駒を進めたのである。
決勝はローマのスタジアム、5万5000人の観衆の下で行われた。相手はチェコスロヴァキア。指定席の料金は100リラ(当時としては桁違いの高額)。ラジオの生中継(当時としては異例)があったので、イタリア中がラジオにかじりついた。チェコスロヴァキアも燃えていた。プラハ中央駅からはファン輸送用に2台の列車が出発していた。ローマ近郊のフラスカーティで合宿を張っていたチェコスロヴァキアチームには1万7000通もの激励電報が届いたと言われている。
前半は0−0に終わったが、アッズーリは思わぬ苦戦を強いられた。チェコスロヴァキアは精密なショートパスでイタリアを再三にわたり窮地に陥れたのである。特に左サイドからのアントニン・プチュの多彩な動きにイタリアDF陣は翻弄されていた。そして、後半、そのプチュの放った左足のシュートがコンビの背後のネットに突き刺さった瞬間、イタリア中が震撼した。
残り時間は20分。アッズーリは浮き足立っていた。そして、ソボクタに決定的なチャンスが訪れた時、イタリアは負けを覚悟した。しかし、幸運の女神はアッズーリに微笑んだ。ソボクタがイージーなシュートミス、アッズーリの反撃が始まったのである。そして後半38分、思わぬ形で同点ゴールが生まれた。ハーフウェイラインからやや入った地点でボールをキープしたオルシは相手GKがゴールエリアから出ているのを見過ごさなかった。オルシが放った25メートルのループシュートは、GKの手をかすめるように相手ゴールに吸い込まれていったのだ。
延長戦に入り、体を張り合う激しい肉弾戦が繰り広げられ、ローマの太陽は選手のエネルギーを奪い取った。まさにサバイバル戦。死闘の様相を呈していた。
そんな中、スキアーヴィオが中盤で相手のボールを奪い、グアイータにパスを出した。グアイータは相手DFを引き付けた上、中央に走り込んだスキアーヴィオにリターンパスをフィード。40メートルを走ったスキアーヴィオだが、最後のエネルギーを絞り出して強烈なシュートを放った。ボールは相手GKプラニツカの背後のネットを激しく揺さぶった。2−1、アッズーリが初めて世界の頂点に立った瞬間である。
優勝を義務付けられていたファシズム時代のアッズーリ
1934年の第2回W杯はイタリア開催。ムッソリーニにとってはまさに格好の国威発揚の場であった。この時代、サッカーの母国を認ずるイングランドは、相変わらずW杯の重要性を無視。“サッカー後進国”と競うことを拒否し、不参加を表明していた。第1回大会優勝のウルグアイも参加を拒否(イタリアがウルグアイでの第1回大会への参加を拒否したことへのしっぺ返しの意味もあったが、国内紛争でスポーツどころではなかったというのが実際のところ)。W杯の歴史がスタートして間もない頃の話である。サッカーにおいても、まだ五輪のほうが重要視されていた時代。大会はローマ、ミラノ、トリノ、フィレンツェ、ボローニャ、ナポリ、トリエステの7会場で繰り広げられた。トリエステのスタジアムなどは大会前、3カ月間の突貫工事で建てられたものであった。
準々決勝ではサモーラを擁するスペインとフィレンツェで対戦。90分を終わって1−1。30分間の延長戦でもカタが付かず、当時はPK戦という規定がなかったため、24時間後に再戦ということになった。
翌日も死闘が繰り返された。地元イタリアに勝利をもたらしたのはメアッツァのゴールであった。前半12分、オルシのCKをヘッドで決めたもの。1−0の僅差で難敵スペインを退け、当時の宿敵オーストリアとの準決勝に臨んだ。場所はミラノ。イタリアには“ホームの利”があった。しかし、イタリアには恐怖感が付きまとっていた。オーストリアに対する苦手意識が強く根ざしていたのだ(それまで13回対戦して8回負けている)。
懸念していたとおり、アッズーリは苦戦を強いられた。驚異のスピードを誇るCF、シンドラーの突破力にモンティ(シンドラーのマーカー)は何度か置き去りにされた。しかし、先制点を挙げたのはアッズーリ。前半19分、スキアーヴィオがエリア外から強烈なシュートを放った。オーストリアGKプラッツァーが弾いたボールをメアッツァが拾い、シュート! GKの手からこぼれたボールを走り込んできたグアイータが無人のゴールにプッシュし、アッズーリは貴重なゴールを挙げたのである。そして、ゲーム終盤、必死に守るイタリアDF陣、GKコンビの神がかりのセービングでオーストリアの猛攻を防ぎ、イタリアは決勝に駒を進めたのである。
決勝はローマのスタジアム、5万5000人の観衆の下で行われた。相手はチェコスロヴァキア。指定席の料金は100リラ(当時としては桁違いの高額)。ラジオの生中継(当時としては異例)があったので、イタリア中がラジオにかじりついた。チェコスロヴァキアも燃えていた。プラハ中央駅からはファン輸送用に2台の列車が出発していた。ローマ近郊のフラスカーティで合宿を張っていたチェコスロヴァキアチームには1万7000通もの激励電報が届いたと言われている。
前半は0−0に終わったが、アッズーリは思わぬ苦戦を強いられた。チェコスロヴァキアは精密なショートパスでイタリアを再三にわたり窮地に陥れたのである。特に左サイドからのアントニン・プチュの多彩な動きにイタリアDF陣は翻弄されていた。そして、後半、そのプチュの放った左足のシュートがコンビの背後のネットに突き刺さった瞬間、イタリア中が震撼した。
残り時間は20分。アッズーリは浮き足立っていた。そして、ソボクタに決定的なチャンスが訪れた時、イタリアは負けを覚悟した。しかし、幸運の女神はアッズーリに微笑んだ。ソボクタがイージーなシュートミス、アッズーリの反撃が始まったのである。そして後半38分、思わぬ形で同点ゴールが生まれた。ハーフウェイラインからやや入った地点でボールをキープしたオルシは相手GKがゴールエリアから出ているのを見過ごさなかった。オルシが放った25メートルのループシュートは、GKの手をかすめるように相手ゴールに吸い込まれていったのだ。
延長戦に入り、体を張り合う激しい肉弾戦が繰り広げられ、ローマの太陽は選手のエネルギーを奪い取った。まさにサバイバル戦。死闘の様相を呈していた。
そんな中、スキアーヴィオが中盤で相手のボールを奪い、グアイータにパスを出した。グアイータは相手DFを引き付けた上、中央に走り込んだスキアーヴィオにリターンパスをフィード。40メートルを走ったスキアーヴィオだが、最後のエネルギーを絞り出して強烈なシュートを放った。ボールは相手GKプラニツカの背後のネットを激しく揺さぶった。2−1、アッズーリが初めて世界の頂点に立った瞬間である。
これは メッセージ 64416 (ditgtedgbbdc さん)への返信です.
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