中国残留孤児
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/28 23:54 投稿番号: [61447 / 99628]
中国残留孤児
ちゅうごくざんりゅうこじ
太平洋戦争の敗戦の混乱の中で、中国大陸、とくに旧満州(中国東北部)で日本人の肉親と生き別れあるいは死別して中国人家庭で養育された子供たちのこと。おおむね当時13歳未満で身元を知らないまま残留した人を「残留孤児」、それ以上の年齢で生活の手段をうしない中国人の妻となった人を「残留婦人等」とよんでいる。
その存在は関係者には知られていたが、1972年(昭和47)の日中国交回復から3年後の75年に厚生省による公開調査がはじまり、81年、戦後36年目にはじめて孤児たちの訪日による身元調査がおこなわれた。以後、99年(平成11)まで集団の訪日による肉親探しがつづいた。この問題に対する日本政府の対応はおそく、敗戦処理のずさんさと非人道性を象徴する問題ともいわれた。
1931年に満州事変をおこした日本は、翌32年に「満州国」をつくり、満州地方を植民地化した。36年、広田弘毅内閣は20年間に100万戸の満州移民計画をたて、「五族協和」の掛け声のもとに日本農民の移民事業をおしすすめた。主として農村の2男、3男を中心に満蒙開拓団が組織され、45年までに約27万人の開拓民が移住していった(→ 満蒙開拓)。開拓地はソ連との国境に近い辺境の地が多く、農地は表面的には受け入れ機関の満州拓殖会社が購入したとされるが、実際は日本軍の武力を背景に中国の農民から暴力的にとりあげたものだった。
太平洋戦争の敗色がこくなる中、満州に駐屯していた日本軍(関東軍)はソ連国境近くの兵力を撤退させ、満州の防御エリアを縮小していた。しかし、その作戦は開拓農民には知らされず、それどころか開拓村の壮年男子は守備隊などにかりだされていた。1945年8月9日、対日参戦したソ連軍がソ満国境をこえて進入してきたときには、多くの開拓村は無防備の状態におかれていた。また、土地をとりあげられた農民の怒りも買っており、開拓民は自力で必死ににげかえろうとした。その混乱の中で、親からはぐれて中国人にひろわれたり、現地の中国人にあずけられたりした乳幼児が、残留孤児になった。
戦後、民間レベルでは細々と肉親探しがおこなわれていたが、日中国交回復後に報道を通じての公開調査がおこなわれ、ついで1981年3月、厚生省の招きで孤児47人が初来日し、肉親探しをおこなった。84年には日本と中国政府の間で、帰国をのぞむ孤児は肉親の有無にかかわらず、その同伴する中国の家族とともに永住させる、ととりきめられた。訪日による身元調査は、87年の第15次調査で終了するはずだったが、その後も肉親探しをもとめる孤児が多く名のりでて、99年11月まで続行された。現在はこのような集団による訪日調査から厚生省職員が訪中し、日中両政府の共同調査によって孤児と確認された者について、「肉親との離別の状況」などのさまざまな情報を日本で公開、肉親情報のある孤児を訪日させて対面調査する方式となっている。一方、肉親情報のない孤児については希望によって、直接、永住帰国または一時帰国させる。
2000年3月までに来日した孤児は2116人、そのうち身元が判明した人は667人で判明率は約31.5%である。また、厚生省による訪日調査以前の1974〜2000年3月までに国費で永住帰国した孤児は2344世帯で、家族をふくめた総人数は8511人。なお、1972〜2000年3月の残留婦人等の国費による永住帰国は3674世帯にのぼる。
その存在は関係者には知られていたが、1972年(昭和47)の日中国交回復から3年後の75年に厚生省による公開調査がはじまり、81年、戦後36年目にはじめて孤児たちの訪日による身元調査がおこなわれた。以後、99年(平成11)まで集団の訪日による肉親探しがつづいた。この問題に対する日本政府の対応はおそく、敗戦処理のずさんさと非人道性を象徴する問題ともいわれた。
1931年に満州事変をおこした日本は、翌32年に「満州国」をつくり、満州地方を植民地化した。36年、広田弘毅内閣は20年間に100万戸の満州移民計画をたて、「五族協和」の掛け声のもとに日本農民の移民事業をおしすすめた。主として農村の2男、3男を中心に満蒙開拓団が組織され、45年までに約27万人の開拓民が移住していった(→ 満蒙開拓)。開拓地はソ連との国境に近い辺境の地が多く、農地は表面的には受け入れ機関の満州拓殖会社が購入したとされるが、実際は日本軍の武力を背景に中国の農民から暴力的にとりあげたものだった。
太平洋戦争の敗色がこくなる中、満州に駐屯していた日本軍(関東軍)はソ連国境近くの兵力を撤退させ、満州の防御エリアを縮小していた。しかし、その作戦は開拓農民には知らされず、それどころか開拓村の壮年男子は守備隊などにかりだされていた。1945年8月9日、対日参戦したソ連軍がソ満国境をこえて進入してきたときには、多くの開拓村は無防備の状態におかれていた。また、土地をとりあげられた農民の怒りも買っており、開拓民は自力で必死ににげかえろうとした。その混乱の中で、親からはぐれて中国人にひろわれたり、現地の中国人にあずけられたりした乳幼児が、残留孤児になった。
戦後、民間レベルでは細々と肉親探しがおこなわれていたが、日中国交回復後に報道を通じての公開調査がおこなわれ、ついで1981年3月、厚生省の招きで孤児47人が初来日し、肉親探しをおこなった。84年には日本と中国政府の間で、帰国をのぞむ孤児は肉親の有無にかかわらず、その同伴する中国の家族とともに永住させる、ととりきめられた。訪日による身元調査は、87年の第15次調査で終了するはずだったが、その後も肉親探しをもとめる孤児が多く名のりでて、99年11月まで続行された。現在はこのような集団による訪日調査から厚生省職員が訪中し、日中両政府の共同調査によって孤児と確認された者について、「肉親との離別の状況」などのさまざまな情報を日本で公開、肉親情報のある孤児を訪日させて対面調査する方式となっている。一方、肉親情報のない孤児については希望によって、直接、永住帰国または一時帰国させる。
2000年3月までに来日した孤児は2116人、そのうち身元が判明した人は667人で判明率は約31.5%である。また、厚生省による訪日調査以前の1974〜2000年3月までに国費で永住帰国した孤児は2344世帯で、家族をふくめた総人数は8511人。なお、1972〜2000年3月の残留婦人等の国費による永住帰国は3674世帯にのぼる。
これは メッセージ 61441 (matikanepoppea さん)への返信です.
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