古代の朝鮮半島の人々(高句麗と百済)
投稿者: quasi_nation2001 投稿日時: 2002/07/22 21:19 投稿番号: [58447 / 99628]
民族という言葉はよく(しばしば政治的な意図で)使われますが、人によって概念の定義自体が様々です。つまり、この言葉自体が一つのフィクションとも言えます。その上での話ですが、
>漢民族も1つの民族ではないだろうしね。君も韓国の三国時代の高句麗と百済が同民族だなんて思っているの?
中国大陸の歴史は凄まじい戦乱の繰り返しですが、少なくとも2回の大混血(元と清、すなわちモンゴル人と満州人)が行われています。現在も漢族というのは10億人もいます。北方地域の人と南方地域の人とでは顔つきも体つきも違う。省が異なると漢族同士でも言葉が通じない。彼らが一つの「民族」であるというのは、もはやフィクションを通り越して確信的ブラック・ジョークなのではないかと勘ぐりたくなるくらいです。
以下は韓国人から見ると違う意見もあるとは思います。皮肉でもイヤミでもなく、韓国人からの冷静な反論をちょっと期待しています。
【高句麗】
高句麗はツングース人の一派が、紀元前後(西暦です、もちろん皇紀ではありません)に中国東北地方に建てた国で、もともとは朝鮮半島に住む人々ではなかったようです。
遼東半島で興った公孫氏に攻められて鴨緑江の方に追いやられ、その公孫氏を滅ぼした魏にさらに攻めたてられて、朝鮮半島に逃げ込んだのですが、中国の混乱に乗じて盛り返し、広開土王(位391〜412)の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国となった。
【三韓から三国時代へ】
話が前後しますが、高句麗が入ってくる前の朝鮮半島は、殷が滅亡したときの王族の子孫や、燕からの亡命一族が国を建てていたようです。前者は箕子朝鮮(?〜前190頃)、衛氏朝鮮(前190頃〜前108)。その後、前漢の武帝が、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の4郡を設置、約400年にわたって中国が支配しました。
3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれていました。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、楽浪郡・帯方郡の間接的支配を受けていました。
56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃に統一され、百済が成立しました。
12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅が成立しました。
12の国に分かれていた弁韓は4世紀中頃日本が進出し、任那を支配下に置いた。(←韓国政府は否定している)
4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新羅・百済の三国(任那は6世紀に新羅と百済に併合された)が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれました。
【高句麗と百済は同族か?】
とりあえず当時の百済人と高句麗人には、あまり共通した所は無かったと思います。むしろ百済人は九州に住んでいた日本人(つまり畿内に住む大和ではなく、熊襲や土蜘蛛などと呼ばれた人々)の方が近く、高句麗人は背が高く手足の長い人々(中国の北方に多い)だったのではないかと勝手に想像しています。
>漢民族も1つの民族ではないだろうしね。君も韓国の三国時代の高句麗と百済が同民族だなんて思っているの?
中国大陸の歴史は凄まじい戦乱の繰り返しですが、少なくとも2回の大混血(元と清、すなわちモンゴル人と満州人)が行われています。現在も漢族というのは10億人もいます。北方地域の人と南方地域の人とでは顔つきも体つきも違う。省が異なると漢族同士でも言葉が通じない。彼らが一つの「民族」であるというのは、もはやフィクションを通り越して確信的ブラック・ジョークなのではないかと勘ぐりたくなるくらいです。
以下は韓国人から見ると違う意見もあるとは思います。皮肉でもイヤミでもなく、韓国人からの冷静な反論をちょっと期待しています。
【高句麗】
高句麗はツングース人の一派が、紀元前後(西暦です、もちろん皇紀ではありません)に中国東北地方に建てた国で、もともとは朝鮮半島に住む人々ではなかったようです。
遼東半島で興った公孫氏に攻められて鴨緑江の方に追いやられ、その公孫氏を滅ぼした魏にさらに攻めたてられて、朝鮮半島に逃げ込んだのですが、中国の混乱に乗じて盛り返し、広開土王(位391〜412)の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国となった。
【三韓から三国時代へ】
話が前後しますが、高句麗が入ってくる前の朝鮮半島は、殷が滅亡したときの王族の子孫や、燕からの亡命一族が国を建てていたようです。前者は箕子朝鮮(?〜前190頃)、衛氏朝鮮(前190頃〜前108)。その後、前漢の武帝が、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の4郡を設置、約400年にわたって中国が支配しました。
3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれていました。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、楽浪郡・帯方郡の間接的支配を受けていました。
56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃に統一され、百済が成立しました。
12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅が成立しました。
12の国に分かれていた弁韓は4世紀中頃日本が進出し、任那を支配下に置いた。(←韓国政府は否定している)
4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新羅・百済の三国(任那は6世紀に新羅と百済に併合された)が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれました。
【高句麗と百済は同族か?】
とりあえず当時の百済人と高句麗人には、あまり共通した所は無かったと思います。むしろ百済人は九州に住んでいた日本人(つまり畿内に住む大和ではなく、熊襲や土蜘蛛などと呼ばれた人々)の方が近く、高句麗人は背が高く手足の長い人々(中国の北方に多い)だったのではないかと勝手に想像しています。
これは メッセージ 58319 (netcitizenjp さん)への返信です.
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