全羅道VS慶尚道
投稿者: kfx567 投稿日時: 2002/07/14 13:20 投稿番号: [54432 / 99628]
韓国をおおざっぱに分けると、
東部の大部分が『慶尚(北・南)道』、
西部のうちの南部が『全羅(北・南)道』ということになる。
両地方は風土、気風等においてかなりの差異があり、
かつての新羅(慶尚道)−百済(全羅道)の頃から対立してきたという。
その対立が深刻になったのが、
61年のクーデターで軍事政権の指導者となった朴大統領の時代である。
この時代ーことに70年代、
韓国は「漢河(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げるのだが、
大統領が慶尚道出身であったことから、
工業団地は慶尚道に、製造業も慶尚道や、
ソウルのある京畿道に集中することになる。
こういった慶尚道重視の近代化政策によって、
穀倉地帯である全羅道は繁栄から取り残され、
失業者は溢れ、小作農たちは職を求めて都市へと流れ出してゆく。
必然的に人々は反政府・民主化勢力にならざるを得ない。
光州市はこの全羅南道の中心地であった。
しかしこの直後の10月朴大統領が暗殺され、
12月には全斗煥らによる粛軍クーデターが起こる。
翌80年になると学生デモは拡大するが、
ソウルでは事態を楽観視したこともあって、5・16以降はデモを中断してしまう。
一方光州では17日、全羅道の木浦(モッポ)出身の金大中が逮捕されたこともあって、
運動はますます激化、18日戒厳軍によって大学生たちに暴力がふるわれたことから、
ついに『光州事件』が勃発することになる。
21日には市民側が建物に放火、
軍が実弾射撃で応じたことで市民側は武器庫を襲って武装し、
市街戦の末に戒厳軍は撤収する。
こうして22日から26日にかけて市民軍による自治が行われるが、
しかし27日明け方、駐韓米軍の許可をうけた韓国軍によって光州は武力鎮圧され、
18日から27日にわたる『光州事件』は終息するのである。
事件の犠牲者数は、巷では二千人といわれているそうだが、
80年の戒厳司令部発表では百八十九人となりはっきりしていない。
これは メッセージ 54430 (kfx567 さん)への返信です.
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