倭
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/02 22:28 投稿番号: [46237 / 99628]
倭
わ
7世紀に日本国号が成立する以前の日本の呼び名。もとは中国による呼び名である。中国は中華思想により、周囲にすむ人々にいやしい名をつけた。倭にすむ倭人とは、背丈が短く背がまるくまがっている人の姿をいう。
「後漢書」や「魏志倭人伝」によれば、倭ははじめ日本列島をふくむ朝鮮半島南部以南だったがしだいに日本列島に限定されたとも、日本列島から朝鮮半島南部に拡大したともとれる。
はじめて倭がみえるのは「漢書」(82年前後成立)の「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す」の記事で、倭人が中国人の目にはじめてとまった。「後漢書」東夷伝には57年に倭国の奴(な)国(または委奴国)が使者をつかわし、107年にも倭国王の帥升(すいしょう)が遣使したとある。
そののち「魏志倭人伝」に239年の邪馬台国の卑弥呼の朝貢と内戦の記事がみえる。4〜5世紀には朝鮮半島南部に軍事進出をはかるいっぽうで中国の南朝(→ 魏晋南北朝)に朝貢し、6世紀末に隋が南北を統一すると遣隋使を派遣するなど国際情勢に敏感な一面をみせている。
倭が「日本」の国号を使用するようになるのは天武天皇の時代、すなわち7世紀後半とする説が有力である。天武は「天皇」の称号ももちい、このころに「倭国王」から「日本天皇」と称するようになったようだ。
魏志倭人伝 ぎしわじんでん 中国の三国時代(220〜280)を記録した史書「三国志」の中の「魏書」東夷(とうい)伝、倭人条の通称。倭人とは日本人のこと。中国では、前王朝の事績をしるした正史をあとにつづく王朝がまとめる責務があるとされ、晋王朝では陳寿がその編纂にあたった。
魏王朝についての記事はすでに魚豢(ぎょけん)が編纂していた「魏略」などをもとにし、おおむねこれにそって「魏書」30巻がつくられた。成立は3世紀後半である。魏志倭人伝には、弥生時代後期の日本国内の邪馬台国などの関係史料がのっている。当時の日本人自身の書いた記録がのこっていないため、ここにある約2000字の記事は古代日本についての貴重な証言である。
それによれば、239年に邪馬台国女王の卑弥呼は、中国東部から朝鮮半島へと力をのばしつつあった魏に朝貢した。卑弥呼は親魏倭王の称号をさずけられ、魏帝から正式な冊封(さくほう)をうけた。そののち卑弥呼は南方にある狗奴(くな)国の攻撃をうけて苦戦し、魏の帯方(たいほう)郡を通じて中国の援助・介入を要請したことが知られる。また邪馬台国までの距離や交通路をはじめ、風俗・習慣・動植物などについてもくわしい。
これらの記事は中国の地方官吏が見聞したものや伝聞を記録したもので、先入観・誇張・誤伝なども多いため、記述どおりにはうけとりがたい。たとえば日本を海南島のすぐ東と考えていたらしく、当時としてはやむをえない誤解といえよう。しかしそれをふまえても、「古事記」「日本書紀」など8世紀の史料から日本の古代社会を推測するより、同時代史料として一級の価値をもつ魏志倭人伝の史料価値のほうが圧倒的に高い。
「後漢書」や「魏志倭人伝」によれば、倭ははじめ日本列島をふくむ朝鮮半島南部以南だったがしだいに日本列島に限定されたとも、日本列島から朝鮮半島南部に拡大したともとれる。
はじめて倭がみえるのは「漢書」(82年前後成立)の「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す」の記事で、倭人が中国人の目にはじめてとまった。「後漢書」東夷伝には57年に倭国の奴(な)国(または委奴国)が使者をつかわし、107年にも倭国王の帥升(すいしょう)が遣使したとある。
そののち「魏志倭人伝」に239年の邪馬台国の卑弥呼の朝貢と内戦の記事がみえる。4〜5世紀には朝鮮半島南部に軍事進出をはかるいっぽうで中国の南朝(→ 魏晋南北朝)に朝貢し、6世紀末に隋が南北を統一すると遣隋使を派遣するなど国際情勢に敏感な一面をみせている。
倭が「日本」の国号を使用するようになるのは天武天皇の時代、すなわち7世紀後半とする説が有力である。天武は「天皇」の称号ももちい、このころに「倭国王」から「日本天皇」と称するようになったようだ。
魏志倭人伝 ぎしわじんでん 中国の三国時代(220〜280)を記録した史書「三国志」の中の「魏書」東夷(とうい)伝、倭人条の通称。倭人とは日本人のこと。中国では、前王朝の事績をしるした正史をあとにつづく王朝がまとめる責務があるとされ、晋王朝では陳寿がその編纂にあたった。
魏王朝についての記事はすでに魚豢(ぎょけん)が編纂していた「魏略」などをもとにし、おおむねこれにそって「魏書」30巻がつくられた。成立は3世紀後半である。魏志倭人伝には、弥生時代後期の日本国内の邪馬台国などの関係史料がのっている。当時の日本人自身の書いた記録がのこっていないため、ここにある約2000字の記事は古代日本についての貴重な証言である。
それによれば、239年に邪馬台国女王の卑弥呼は、中国東部から朝鮮半島へと力をのばしつつあった魏に朝貢した。卑弥呼は親魏倭王の称号をさずけられ、魏帝から正式な冊封(さくほう)をうけた。そののち卑弥呼は南方にある狗奴(くな)国の攻撃をうけて苦戦し、魏の帯方(たいほう)郡を通じて中国の援助・介入を要請したことが知られる。また邪馬台国までの距離や交通路をはじめ、風俗・習慣・動植物などについてもくわしい。
これらの記事は中国の地方官吏が見聞したものや伝聞を記録したもので、先入観・誇張・誤伝なども多いため、記述どおりにはうけとりがたい。たとえば日本を海南島のすぐ東と考えていたらしく、当時としてはやむをえない誤解といえよう。しかしそれをふまえても、「古事記」「日本書紀」など8世紀の史料から日本の古代社会を推測するより、同時代史料として一級の価値をもつ魏志倭人伝の史料価値のほうが圧倒的に高い。
これは メッセージ 46188 (ilbonboji さん)への返信です.
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