ベトナム戦争3
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/07/02 21:33 投稿番号: [46145 / 99628]
VI テト攻勢
米軍司令官ウェストモーランドは、前線のない戦いがつづく南ベトナムで、敵に人員補強能力をうわまわる損害をあたえるという消耗戦を基本的な戦略とした。しかし、解放側は、大量の北ベトナム軍を南の戦場におくり、多大な犠牲者をだしながらも兵力を維持し、戦局は見通しがたたなくなった。1968年初頭、北ベトナム軍と南の解放戦線軍は、多くの都市を標的とした同時攻撃、テト(旧正月)攻勢にうってでた。この攻勢はアメリカ国民に衝撃をあたえ、ベトナム戦争の行き詰まりを自覚させることになった。
アメリカ人の多くはこの戦争には勝てないと考えるようになった。1965年ごろからはじまったベトナム反戦運動は大きな高まりをみせ、68年3月31日、ジョンソンは北爆の部分的停止を表明。5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催され、北爆は10月に全面停止された。和平会談は69年に南ベトナム政府と解放戦線をふくむ形に拡大され、6月には解放戦線が南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立した。
VII 戦争のベトナム化
1969年、ジョンソンのあとをついだニクソン大統領は、「戦争のベトナム化」をとなえ、2万5000人のアメリカ軍を同年8月までにベトナムから撤退させることを表明。さらに6万5000人の削減をこの年の終わりまでにおこなうよう命じた。ニクソンのねらいは、サイゴン軍を訓練し兵器をあたえて強化することによって撤退した米軍の穴うめをするというもので、「ベトナム化」とは、サイゴン軍の「米軍化」ということだった。
ニクソン大統領はその一方で、後方安定のために戦争拡大もはかった。1970年4月、南ベトナム軍とアメリカの戦闘部隊がカンボジアに侵攻、戦場がカンボジアやラオスまでひろがったが、この攻撃は成功せず、解放区がかえって増加した。71年の死傷者数は、アメリカ軍の死者は70年の4221人から1380人へと減少したが、南ベトナム軍は2万1500人にのぼった。
VIII アメリカでの論争
南ベトナムのアメリカ軍は1969年に54万1000人というピークをむかえた。アメリカ国内では軍事介入が深まるにつれ、戦争についての論議が活発になっていった。反戦平和運動はひろがりをみせ、ベトナムでのアメリカ軍のおかした残虐行為、とくに68年のソンミ村での住民の虐殺事件などがつたえられると、運動は激化した。
IX 72年の春季大攻勢
1972年3月30日、北ベトナム軍は非武装地帯をこえてクワンチにせめこむ大規模な攻勢にでた。アメリカ軍はその報復に4月、67年以来の、北に深くはいりこむ北爆をおこなった。さらに5月、ニクソンは敵側の補給路を遮断するために、ハイフォンなどの北ベトナムの主要な港湾の機雷封鎖を命じた。空爆は鉄道へもむけられたために、北ベトナムに深刻な経済問題をひきおこすことになった。北ベトナム側はクワンチの街を4カ月半もちこたえたが、9月15日に南ベトナム軍に再奪取された。
X 再度のエスカレーション 1972年後半、極秘の和平会談が、大統領補佐官キッシンジャーと北ベトナム代表のレ・ドク・トとの間で断続的にひらかれた。会談が前進したのは、北ベトナム側が戦争の政治面と軍事面とをわけ、それまでかかげていた南のグエン・バン・ティエウ大統領の退陣要求をとりさげ、ラオスやカンボジアの状況についても同時にはなしあうという和平案の受け入れを表明したことにあった。そして10月26日に9項目の和平案が公表された。
しかし、キッシンジャーとレ・ドク・トとの会談が1972年12月4日に再開され、最終的な合意がなされようとしていた16日、突如会談は中止され、翌日ニクソンは最後の軍事的圧力としてハノイとハイフォンへの大規模爆撃を命じた。爆撃は12月18日から30日までおこなわれ、国際的な非難が高まった。
米軍司令官ウェストモーランドは、前線のない戦いがつづく南ベトナムで、敵に人員補強能力をうわまわる損害をあたえるという消耗戦を基本的な戦略とした。しかし、解放側は、大量の北ベトナム軍を南の戦場におくり、多大な犠牲者をだしながらも兵力を維持し、戦局は見通しがたたなくなった。1968年初頭、北ベトナム軍と南の解放戦線軍は、多くの都市を標的とした同時攻撃、テト(旧正月)攻勢にうってでた。この攻勢はアメリカ国民に衝撃をあたえ、ベトナム戦争の行き詰まりを自覚させることになった。
アメリカ人の多くはこの戦争には勝てないと考えるようになった。1965年ごろからはじまったベトナム反戦運動は大きな高まりをみせ、68年3月31日、ジョンソンは北爆の部分的停止を表明。5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催され、北爆は10月に全面停止された。和平会談は69年に南ベトナム政府と解放戦線をふくむ形に拡大され、6月には解放戦線が南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立した。
VII 戦争のベトナム化
1969年、ジョンソンのあとをついだニクソン大統領は、「戦争のベトナム化」をとなえ、2万5000人のアメリカ軍を同年8月までにベトナムから撤退させることを表明。さらに6万5000人の削減をこの年の終わりまでにおこなうよう命じた。ニクソンのねらいは、サイゴン軍を訓練し兵器をあたえて強化することによって撤退した米軍の穴うめをするというもので、「ベトナム化」とは、サイゴン軍の「米軍化」ということだった。
ニクソン大統領はその一方で、後方安定のために戦争拡大もはかった。1970年4月、南ベトナム軍とアメリカの戦闘部隊がカンボジアに侵攻、戦場がカンボジアやラオスまでひろがったが、この攻撃は成功せず、解放区がかえって増加した。71年の死傷者数は、アメリカ軍の死者は70年の4221人から1380人へと減少したが、南ベトナム軍は2万1500人にのぼった。
VIII アメリカでの論争
南ベトナムのアメリカ軍は1969年に54万1000人というピークをむかえた。アメリカ国内では軍事介入が深まるにつれ、戦争についての論議が活発になっていった。反戦平和運動はひろがりをみせ、ベトナムでのアメリカ軍のおかした残虐行為、とくに68年のソンミ村での住民の虐殺事件などがつたえられると、運動は激化した。
IX 72年の春季大攻勢
1972年3月30日、北ベトナム軍は非武装地帯をこえてクワンチにせめこむ大規模な攻勢にでた。アメリカ軍はその報復に4月、67年以来の、北に深くはいりこむ北爆をおこなった。さらに5月、ニクソンは敵側の補給路を遮断するために、ハイフォンなどの北ベトナムの主要な港湾の機雷封鎖を命じた。空爆は鉄道へもむけられたために、北ベトナムに深刻な経済問題をひきおこすことになった。北ベトナム側はクワンチの街を4カ月半もちこたえたが、9月15日に南ベトナム軍に再奪取された。
X 再度のエスカレーション 1972年後半、極秘の和平会談が、大統領補佐官キッシンジャーと北ベトナム代表のレ・ドク・トとの間で断続的にひらかれた。会談が前進したのは、北ベトナム側が戦争の政治面と軍事面とをわけ、それまでかかげていた南のグエン・バン・ティエウ大統領の退陣要求をとりさげ、ラオスやカンボジアの状況についても同時にはなしあうという和平案の受け入れを表明したことにあった。そして10月26日に9項目の和平案が公表された。
しかし、キッシンジャーとレ・ドク・トとの会談が1972年12月4日に再開され、最終的な合意がなされようとしていた16日、突如会談は中止され、翌日ニクソンは最後の軍事的圧力としてハノイとハイフォンへの大規模爆撃を命じた。爆撃は12月18日から30日までおこなわれ、国際的な非難が高まった。
これは メッセージ 46075 (ilbonboji さん)への返信です.
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