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>壬辰倭乱

投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/06/30 20:39 投稿番号: [42312 / 99628]
I プロローグ 文禄・慶長の役   ぶんろくけいちょうのえき   1592〜98年(文禄元〜慶長3)に豊臣秀吉が2度にわたっておこした朝鮮半島への侵略戦争。前者を文禄の役、後者を慶長の役といい、あわせて朝鮮出兵という。朝鮮では当時の干支から壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)とよぶ。

II 1回目の出兵―文禄の役
天正年間(1573〜92)に全国統一をなしとげた秀吉は、次に領土拡張をもとめて中国の明への侵攻を計画し、朝鮮にその案内を要求した。しかし、朝鮮側に拒否されたため、1592年、16万の大軍をもって文禄の役をおこした。朝鮮半島へわたった日本軍は、戦国動乱の時代をたたかいぬいてきた歴戦の大名たちの軍隊で、武器も朝鮮のものより優秀だった。はじめのうち日本軍は勝利を重ね、明国国境近くまで侵攻したが、やがて明国の大援軍が参戦し、李舜臣ひきいる朝鮮水軍の攻撃や朝鮮民衆の抵抗で補給路をたたれるなど、しだいに不利となっていった。93年5月から日明は、和議に反対する朝鮮を抜きに和議交渉にはいった。

III 2回目の出兵―慶長の役
この交渉の裏では、日本軍小西行長と明軍の沈惟敬(しんいけい)の画策があり、また秀吉は朝鮮での戦況を正確に把握できていなかった。そのため日本側の勝利を信じていた秀吉が、朝鮮南部4道の割譲や勘合貿易の復活など7カ条を要求。秀吉の講和条件は明皇帝にいつわってつたえられた。1596年にだされた明皇帝の誥勅(こうちょく)は、秀吉を日本国王としてみとめ、冊封(さくほう)のみをゆるすとするもので、秀吉の要求とはあまりにもかけはなれていた。

これに怒った秀吉は、1597年に慶長の役をおこしたが、その目的は、文禄の役に従軍した大名たちへの恩賞地として、朝鮮の領土を獲得することにあった。しかし、朝鮮軍と明軍の反撃をうけて日本軍は前回以上の苦戦を強いられ、翌年8月の秀吉の死を機会に10月から撤退しはじめ11月に全軍撤退、帰還した。

日本の侵略は、朝鮮に莫大(ばくだい)な被害をあたえた。農民は農耕を強制されて兵糧(ひょうろう)米をとられた。日本軍による残虐行為もはげしく、虐殺や餓死・病死者が続出して耕地や人口も大幅に減少した。また多くの朝鮮人民が捕虜として日本へ連行され、農業労働者や製陶技術者などとして酷使された。唐津焼・薩摩焼などの陶磁器の技術は、このときにつたえられたものという。朝鮮ではこの戦争を、のろわれた戦争として長く語りつたえている。

2度にわたる朝鮮出兵の失敗は、秀吉亡きあとの豊臣政権の崩壊をはやめたといわれる。
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