>元寇ってこれ?
投稿者: ditgtedgbbdc 投稿日時: 2002/06/28 01:38 投稿番号: [34145 / 99628]
I プロローグ モンゴル襲来
モンゴルしゅうらい
1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度にわたるモンゴル(元)軍の日本襲来。元寇(げんこう)、蒙古(もうこ)襲来、文永・弘安の役ともいう。モンゴル帝国5代皇帝フビライは、中国の南宋や朝鮮の高麗(こうらい)をほぼおさえると、日本も支配下におこうと計画し、1268年(文永5)以降たびたび日本に使者をおくり、服属をせまった。鎌倉幕府の執権であった北条時宗はこれを拒絶し、九州方面に所領をもつ御家人を帰国させ、北九州の防衛をかためた。
II 文永の役
1271年に国号を大元(元)とさだめ、初代皇帝となったフビライは、73年武力による日本征服を正式に決定。翌年10月3日、元兵約2万と高麗兵約6000からなる軍を朝鮮南端の合浦(がっぽ)から出発させた。元・高麗軍は、対馬ついで壱岐をおそい、19日に博多湾に侵入した。むかえうつ九州の御家人ら日本軍は、元軍のもちいる集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため苦戦し、大宰府の水城までしりぞいた。日没にともない元軍もいったん船にひきかえしたが、その夜に大暴風雨がおこり、元の兵船200以上が転覆、元軍はのこる船をまとめて退却した。これを文永の役とよぶ。
フビライは日本征服をあきらめず、1275年(建治元)服属を勧告する使者を日本におくった。北条時宗は使者を鎌倉で殺すとともに、九州の御家人を動員して異国警固番役を課した。同じころ防衛強化のため博多湾沿岸一帯に石築地(いしついじ)をつくらせ、山陰・山陽・南海三道の海辺の地頭・御家人にいつでも船員を徴発できるよう準備を命じている。フビライは79年(弘安2)に南宋をほろぼすと、またも使者を日本におくったが、これも博多で首をきられた。
III 弘安の役
1281年にフビライは日本遠征の命令をくだし、東路軍と江南軍にわけて出発させた。5月、モンゴル人・高麗人・漢人からなる東路軍約4万が朝鮮の合浦を出発し、対馬・壱岐をおそい博多湾にせめこんだ。日本軍の奮戦で東路軍はいったん壱岐にしりぞくと、江南軍の到着をまった。江南軍10万は、予定よりおくれて慶元(現ニンポー)を出発し、7月にはいって東路軍と合流。7月末に肥前国鷹島(たかしま)にうつったが、夜半にふたたび大暴風雨がおそい、元軍は壊滅的な打撃をうけ退却した。これを弘安の役とよぶ。
IV 襲来の影響
日本は2度の元軍の襲来をしりぞけられはしたものの、またいつ元軍がせめてくるか予測がつかず、その後も元は大きな脅威となった。鎌倉幕府は元の第3次日本遠征にそなえて警戒体制をゆるめず、異国警固番役を継続し、御家人だけでなく西国の荘園・国衙(こくが)領内の御家人以外の者にも命じるようになった。モンゴル襲来を契機に幕府がこれまで支配外にあった非御家人を動員する権限を西国で獲得した意味は大きく、西国における幕府権力強化につながった。
いっぽう弘安の役後、勲功者に対し恩賞が何回かあたえられたが、十分ではなかったため、武士や異国降伏の祈祷(きとう)をおこなった寺社には不満であった。そのうえ、文永・弘安の2度の戦いでの戦費や異国警固番役の負担は、御家人の窮乏をますますきびしいものにする。たえきれなくなった御家人のなかには所領を質にいれたり、売却して没落する者も多くいた。こうした御家人の没落は、幕府の権力基盤である御家人制を動揺させる結果となり、鎌倉幕府滅亡の一因となる。
II 文永の役
1271年に国号を大元(元)とさだめ、初代皇帝となったフビライは、73年武力による日本征服を正式に決定。翌年10月3日、元兵約2万と高麗兵約6000からなる軍を朝鮮南端の合浦(がっぽ)から出発させた。元・高麗軍は、対馬ついで壱岐をおそい、19日に博多湾に侵入した。むかえうつ九州の御家人ら日本軍は、元軍のもちいる集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため苦戦し、大宰府の水城までしりぞいた。日没にともない元軍もいったん船にひきかえしたが、その夜に大暴風雨がおこり、元の兵船200以上が転覆、元軍はのこる船をまとめて退却した。これを文永の役とよぶ。
フビライは日本征服をあきらめず、1275年(建治元)服属を勧告する使者を日本におくった。北条時宗は使者を鎌倉で殺すとともに、九州の御家人を動員して異国警固番役を課した。同じころ防衛強化のため博多湾沿岸一帯に石築地(いしついじ)をつくらせ、山陰・山陽・南海三道の海辺の地頭・御家人にいつでも船員を徴発できるよう準備を命じている。フビライは79年(弘安2)に南宋をほろぼすと、またも使者を日本におくったが、これも博多で首をきられた。
III 弘安の役
1281年にフビライは日本遠征の命令をくだし、東路軍と江南軍にわけて出発させた。5月、モンゴル人・高麗人・漢人からなる東路軍約4万が朝鮮の合浦を出発し、対馬・壱岐をおそい博多湾にせめこんだ。日本軍の奮戦で東路軍はいったん壱岐にしりぞくと、江南軍の到着をまった。江南軍10万は、予定よりおくれて慶元(現ニンポー)を出発し、7月にはいって東路軍と合流。7月末に肥前国鷹島(たかしま)にうつったが、夜半にふたたび大暴風雨がおそい、元軍は壊滅的な打撃をうけ退却した。これを弘安の役とよぶ。
IV 襲来の影響
日本は2度の元軍の襲来をしりぞけられはしたものの、またいつ元軍がせめてくるか予測がつかず、その後も元は大きな脅威となった。鎌倉幕府は元の第3次日本遠征にそなえて警戒体制をゆるめず、異国警固番役を継続し、御家人だけでなく西国の荘園・国衙(こくが)領内の御家人以外の者にも命じるようになった。モンゴル襲来を契機に幕府がこれまで支配外にあった非御家人を動員する権限を西国で獲得した意味は大きく、西国における幕府権力強化につながった。
いっぽう弘安の役後、勲功者に対し恩賞が何回かあたえられたが、十分ではなかったため、武士や異国降伏の祈祷(きとう)をおこなった寺社には不満であった。そのうえ、文永・弘安の2度の戦いでの戦費や異国警固番役の負担は、御家人の窮乏をますますきびしいものにする。たえきれなくなった御家人のなかには所領を質にいれたり、売却して没落する者も多くいた。こうした御家人の没落は、幕府の権力基盤である御家人制を動揺させる結果となり、鎌倉幕府滅亡の一因となる。
これは メッセージ 34119 (cream_choko_star さん)への返信です.
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