コピペ3
投稿者: bjkh0001 投稿日時: 2002/06/28 00:41 投稿番号: [34011 / 99628]
■私は「ワールドカップ」が見たいのだ!
私が、今回の韓国で行われているこのイベントを「ウリナラカップ」と評しているのは、皮肉でも何でもない。まぎれもない事実である。
今、韓国では、これまで連綿と受け継いできた美徳を押しのけるかのように、「勝てば何でも許される」という思い込みが国民の間でまん延しているように思えてならない。当地のテレビを見ていると、その傾向は顕著である。
一例を挙げよう。韓国の某局では、「イタリア戦勝利を振り返る」という番組主旨のもと、試合を実況していたイタリア国営放送・RAIのアナウンサーの落胆振りを長々と放映し、彼らを笑いのネタにしていたのである。
それだけではない。同局は敗戦後のイタリア・サポーターにも「今日のゲームをどう思いますか?」などと、執拗(しつよう)にマイクを向けていたのである。
ほとんどのイタリア人は取材拒否。当然だろう。何とか仕事をやりくりして長い休暇を取り、決して安くはない渡航費を払って韓国にやってきて、結果あのような試合を見せられたのだ。そんな絶望のふちに立たされた人々に、「今日のゲームをどう思いますか?」はないだろう。この仕打ちは、犯罪被害者に対して無遠慮にマイクを向けるワードショーの記者と同じくらい、デリカシーを欠いた行為であると言わざるを得ない。
くどいようだが、今大会における韓国の果たした快挙については、できることなら私も素直に評価したいのだ。しかしながら、彼らが自分たちの躍進に酔いしれるあまり、勝利に対する謙虚さも、敗者に対する礼節も、まったくと言ってよいほど見失ってしまっている現状については、私はただ戸惑うばかりである。
それが端的に現れたのが、先のスペイン戦である。試合終了後、韓国の選手たちは、120分死力を尽くした相手に対して、何らいたわりや思いやりの気持ちを見せることなく、ただ自分たちの勝利に有頂天になっていた。
望外のベスト4進出に狂気乱舞するのは、ある意味でもっともなことだとは思う。しかしながら、サッカーという競技は相手チームがあって初めて成り立つ競技であることを、ゆめゆめ忘れるべきではない。
ゲームが終われば、そこには必然的に勝者と敗者がいる。そこに互いの健闘をたたえ合う姿勢がなければ、そして、サッカーの神に対する感謝の気持ちがなければ、もはやそれは「サッカー」でもなければ「ワールドカップ」でもない。
そう、これぞまさしく「ウリナラカップ」である。
結局、スペインの選手たちは、プジョルを除いてだれ一人、韓国の選手たちとユニホーム交換をすることなく、ピッチを去っていった。サッカーを愛する者として、何ともやり切れない思いばかりが残る。
私は「ウリナラカップ」が見たいのではない。「ワールドカップ」が見たいのだ!
私が、今回の韓国で行われているこのイベントを「ウリナラカップ」と評しているのは、皮肉でも何でもない。まぎれもない事実である。
今、韓国では、これまで連綿と受け継いできた美徳を押しのけるかのように、「勝てば何でも許される」という思い込みが国民の間でまん延しているように思えてならない。当地のテレビを見ていると、その傾向は顕著である。
一例を挙げよう。韓国の某局では、「イタリア戦勝利を振り返る」という番組主旨のもと、試合を実況していたイタリア国営放送・RAIのアナウンサーの落胆振りを長々と放映し、彼らを笑いのネタにしていたのである。
それだけではない。同局は敗戦後のイタリア・サポーターにも「今日のゲームをどう思いますか?」などと、執拗(しつよう)にマイクを向けていたのである。
ほとんどのイタリア人は取材拒否。当然だろう。何とか仕事をやりくりして長い休暇を取り、決して安くはない渡航費を払って韓国にやってきて、結果あのような試合を見せられたのだ。そんな絶望のふちに立たされた人々に、「今日のゲームをどう思いますか?」はないだろう。この仕打ちは、犯罪被害者に対して無遠慮にマイクを向けるワードショーの記者と同じくらい、デリカシーを欠いた行為であると言わざるを得ない。
くどいようだが、今大会における韓国の果たした快挙については、できることなら私も素直に評価したいのだ。しかしながら、彼らが自分たちの躍進に酔いしれるあまり、勝利に対する謙虚さも、敗者に対する礼節も、まったくと言ってよいほど見失ってしまっている現状については、私はただ戸惑うばかりである。
それが端的に現れたのが、先のスペイン戦である。試合終了後、韓国の選手たちは、120分死力を尽くした相手に対して、何らいたわりや思いやりの気持ちを見せることなく、ただ自分たちの勝利に有頂天になっていた。
望外のベスト4進出に狂気乱舞するのは、ある意味でもっともなことだとは思う。しかしながら、サッカーという競技は相手チームがあって初めて成り立つ競技であることを、ゆめゆめ忘れるべきではない。
ゲームが終われば、そこには必然的に勝者と敗者がいる。そこに互いの健闘をたたえ合う姿勢がなければ、そして、サッカーの神に対する感謝の気持ちがなければ、もはやそれは「サッカー」でもなければ「ワールドカップ」でもない。
そう、これぞまさしく「ウリナラカップ」である。
結局、スペインの選手たちは、プジョルを除いてだれ一人、韓国の選手たちとユニホーム交換をすることなく、ピッチを去っていった。サッカーを愛する者として、何ともやり切れない思いばかりが残る。
私は「ウリナラカップ」が見たいのではない。「ワールドカップ」が見たいのだ!
これは メッセージ 1 (magekuri さん)への返信です.
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