旧約聖書は不条理の極みじゃないかって
投稿者: secular2004jp 投稿日時: 2007/02/24 20:51 投稿番号: [4134 / 4578]
コーランはどうかな?
http://piza.2ch.net/log2/psy/kako/958/958883292.html
>1 名前: HS 投稿日: 2000/05/21(日) 13:28
聖書読むんですけど旧約聖書って不条理
の極みですね。神様の命令とか言って町す
べてを焼き払い、皆殺しですよ。Davidも
人妻を犯してその夫を戦場へ送って殺して
しまうし。
妹を犯してボロくずのように捨てた人と
か。
新改訳では「聖絶」なんて言ってるけど
結局「ポア」と同じじゃないかって。キリ
がないけど。
悩んでます。
みんなどう思う?
殺せ!と神が命じるとき宗教殺人について
佐倉哲の結論部
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
>オウム殺人事件の意義
オウムの事件は単なる凶悪なテロではありません。それはまた単なる凶悪集団の問題でもありません。なぜなら、オウムの事件は
被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。
(江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より)
という困難な問いをわたしたちに突きつけているからです。この問いは、「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における神の殺人命令を否定できないのか、という問いとまったく同じものです。
そして、その答えは、これまで見てきたように、信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると言えます。
もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないとしたら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助けるボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じてなされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないかもしれません。
それゆえ、不幸中の幸いというべきか、オウム殺人事件は、はたして、わたしたちが「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを「正しい」とする判断が、本当に賢哲な判断かどうか、それを考えさせる機会を与えてくれたことにおいて、大きな意義があると思われます。
「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」をなかなか捨てられないよね。トルコ人さんどうよ。
http://piza.2ch.net/log2/psy/kako/958/958883292.html
>1 名前: HS 投稿日: 2000/05/21(日) 13:28
聖書読むんですけど旧約聖書って不条理
の極みですね。神様の命令とか言って町す
べてを焼き払い、皆殺しですよ。Davidも
人妻を犯してその夫を戦場へ送って殺して
しまうし。
妹を犯してボロくずのように捨てた人と
か。
新改訳では「聖絶」なんて言ってるけど
結局「ポア」と同じじゃないかって。キリ
がないけど。
悩んでます。
みんなどう思う?
殺せ!と神が命じるとき宗教殺人について
佐倉哲の結論部
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
>オウム殺人事件の意義
オウムの事件は単なる凶悪なテロではありません。それはまた単なる凶悪集団の問題でもありません。なぜなら、オウムの事件は
被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。
(江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より)
という困難な問いをわたしたちに突きつけているからです。この問いは、「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における神の殺人命令を否定できないのか、という問いとまったく同じものです。
そして、その答えは、これまで見てきたように、信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると言えます。
もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないとしたら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助けるボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じてなされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないかもしれません。
それゆえ、不幸中の幸いというべきか、オウム殺人事件は、はたして、わたしたちが「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを「正しい」とする判断が、本当に賢哲な判断かどうか、それを考えさせる機会を与えてくれたことにおいて、大きな意義があると思われます。
「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」をなかなか捨てられないよね。トルコ人さんどうよ。
これは メッセージ 4133 (secular2004jp さん)への返信です.
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