Re: 信教の自由
投稿者: secular2004jp 投稿日時: 2007/01/17 13:55 投稿番号: [4072 / 4578]
http://www1.doshisha.ac.jp/~knakata/newpage1.html
イスラームにおける寛容
つまり「宗教に強制はない」との意味は、
(1)イスラームの真理が明かされれば、分別のある人間なら当然自発的にイスラームに入信するはずである(それゆえ強制は必要でない)、という予定調和的発想であるか、
(2)メッカ期のイスラームの相対的弱体期の暫定的な戦闘の禁止であるか、
(3)教義の本質的部分において多くの共通点を持つキリスト教、ユダヤ教にのみ適用される例外規定であるか、
(4)剣をつきつけられて入信した者を強制されて入信したとして差別してはいけない、つまり強制による入信の有効性を追認する趣旨の啓示であるかのいずれか、
であり、近代西欧的「信仰の自由」の概念とは無縁であることは明らかであろう。
四 結語
我々は二節では「宗教に強制はない」の章句の注釈書、三節ではイスラーム法学の「庇護契約」、「ジハード」、「背教」の規定を略述したが、これまでの議論を整理して本稿の結びとしたい。
1イスラームは人類は等しく理性を有すると考える。
2イスラームは普遍宗教を自認し、人類全ての教化を目指す。
3普遍主義の帰結としてイスラームは、聖職者と俗人の区別を設けず、修道院制度を持たず、全ての社会階層を包摂する全体社会〔犯罪者をも含む〕に妥当する規範体系としてのイスラーム法を発展させた。
4イスラーム法はその執行機関としての権力機構の存在を要請する。
5従ってイスラームは全体社会の秩序維持の責任を自ら引き受け、それを「外部」の権力機構に転嫁しない。
6普遍主義の論理的帰結として、イスラームは独占的真理要求を掲げる。
7アッラーの使信の伝達媒体である預言者、使徒が媒体である限りにおいて無謬であるとされるのに対して、使徒ムハンマドの没後は、無謬性はイスラーム共同体全体に相続され、無謬な個人の存在の可能性は否定され、ムスリム個々人には独占的真理要求は許されず、イスラーム共同体全体の合意が確認された場合に限り、異教徒に対する優越が確定する。
8救済の条件としてのイスラームの範囲は、実定宗教としての「イスラーム教」よりも広く、曖昧さを残す。
9イスラーム法学は、この広義のイスラームの理論的探究には興味を示さず、実定宗教としての「イスラーム教」の境界設定、異教徒との関係の規定のみを展開した。
10イスラームは自明な真理であり、その宣教が届きさえすれば入信するのは当然であるとみなされる。
11イスラームの入信手続きは極めて簡単で、アッラーの唯一性とムハンマドの使徒性の信仰告白で足りる。
12教義の中心が唯一神アッラーの崇拝、帰依であることから、イスラームの信仰は自由な人格の主体的な行為としての求道といったものではなく、神命に基づく義務となる。
13全ての民族に預言者が遣わされたとして、広義のイスラームの信仰の普遍的義務が根拠付けられる一方で、実定宗教としての「イスラーム教」の宣教が届いていない地があることは自明視されている。
14宣教から入信までのタイムラグの存在は認められることから、その理論的基礎の上に異教徒との共存関係の法的規定が与えられる。
15異教徒の存在の許容は、あくまでも悟りの遅い愚者への猶予といった性格のものであり、異教徒の信仰がそれ自体価値を有するものとして尊重されるわけではない。
16異教徒の存在の容認はあくまで恩恵的なものであり、普遍的な生存権の発想に基づくものではない。それゆえ異教徒がイスラームに敵対する場合には無力化されるか、さもなければ殲滅されねばならない。
17異教徒はあくまでも劣った存在であることが、服装、住居、乗物の種類にまでいたるムスリムとの差別化の中で不断に強調される。
18異教徒の生存はイスラームの真理を理解するための猶予期間として許されているにすぎないため、イスラーム以外への改宗は禁じられる。
19真理を悟ったのちには猶予は存在せず、従って背教は死罪となる。
20背教は構成要件の明確に規定された法的概念であり、悔悟によって赦される。
以上、我々は権威ある古典のテキストに則し、「寛容」に関わる諸問題についてのイスラームの立場の整理を試みた。
しかし序節で述べたように、伝統的にイスラームは「寛容」の問題を主題的に扱ってきたわけではなく、この整理の妥当性以前に、テキストの選択自体が恣意性を免れえないことは改めて強調されねばならない。本稿が読者がイスラームを考えるための一助となれば、筆者の望外の幸せである。
最後に本稿で論じたものとは全く異なる発想が
イスラームにおける寛容
つまり「宗教に強制はない」との意味は、
(1)イスラームの真理が明かされれば、分別のある人間なら当然自発的にイスラームに入信するはずである(それゆえ強制は必要でない)、という予定調和的発想であるか、
(2)メッカ期のイスラームの相対的弱体期の暫定的な戦闘の禁止であるか、
(3)教義の本質的部分において多くの共通点を持つキリスト教、ユダヤ教にのみ適用される例外規定であるか、
(4)剣をつきつけられて入信した者を強制されて入信したとして差別してはいけない、つまり強制による入信の有効性を追認する趣旨の啓示であるかのいずれか、
であり、近代西欧的「信仰の自由」の概念とは無縁であることは明らかであろう。
四 結語
我々は二節では「宗教に強制はない」の章句の注釈書、三節ではイスラーム法学の「庇護契約」、「ジハード」、「背教」の規定を略述したが、これまでの議論を整理して本稿の結びとしたい。
1イスラームは人類は等しく理性を有すると考える。
2イスラームは普遍宗教を自認し、人類全ての教化を目指す。
3普遍主義の帰結としてイスラームは、聖職者と俗人の区別を設けず、修道院制度を持たず、全ての社会階層を包摂する全体社会〔犯罪者をも含む〕に妥当する規範体系としてのイスラーム法を発展させた。
4イスラーム法はその執行機関としての権力機構の存在を要請する。
5従ってイスラームは全体社会の秩序維持の責任を自ら引き受け、それを「外部」の権力機構に転嫁しない。
6普遍主義の論理的帰結として、イスラームは独占的真理要求を掲げる。
7アッラーの使信の伝達媒体である預言者、使徒が媒体である限りにおいて無謬であるとされるのに対して、使徒ムハンマドの没後は、無謬性はイスラーム共同体全体に相続され、無謬な個人の存在の可能性は否定され、ムスリム個々人には独占的真理要求は許されず、イスラーム共同体全体の合意が確認された場合に限り、異教徒に対する優越が確定する。
8救済の条件としてのイスラームの範囲は、実定宗教としての「イスラーム教」よりも広く、曖昧さを残す。
9イスラーム法学は、この広義のイスラームの理論的探究には興味を示さず、実定宗教としての「イスラーム教」の境界設定、異教徒との関係の規定のみを展開した。
10イスラームは自明な真理であり、その宣教が届きさえすれば入信するのは当然であるとみなされる。
11イスラームの入信手続きは極めて簡単で、アッラーの唯一性とムハンマドの使徒性の信仰告白で足りる。
12教義の中心が唯一神アッラーの崇拝、帰依であることから、イスラームの信仰は自由な人格の主体的な行為としての求道といったものではなく、神命に基づく義務となる。
13全ての民族に預言者が遣わされたとして、広義のイスラームの信仰の普遍的義務が根拠付けられる一方で、実定宗教としての「イスラーム教」の宣教が届いていない地があることは自明視されている。
14宣教から入信までのタイムラグの存在は認められることから、その理論的基礎の上に異教徒との共存関係の法的規定が与えられる。
15異教徒の存在の許容は、あくまでも悟りの遅い愚者への猶予といった性格のものであり、異教徒の信仰がそれ自体価値を有するものとして尊重されるわけではない。
16異教徒の存在の容認はあくまで恩恵的なものであり、普遍的な生存権の発想に基づくものではない。それゆえ異教徒がイスラームに敵対する場合には無力化されるか、さもなければ殲滅されねばならない。
17異教徒はあくまでも劣った存在であることが、服装、住居、乗物の種類にまでいたるムスリムとの差別化の中で不断に強調される。
18異教徒の生存はイスラームの真理を理解するための猶予期間として許されているにすぎないため、イスラーム以外への改宗は禁じられる。
19真理を悟ったのちには猶予は存在せず、従って背教は死罪となる。
20背教は構成要件の明確に規定された法的概念であり、悔悟によって赦される。
以上、我々は権威ある古典のテキストに則し、「寛容」に関わる諸問題についてのイスラームの立場の整理を試みた。
しかし序節で述べたように、伝統的にイスラームは「寛容」の問題を主題的に扱ってきたわけではなく、この整理の妥当性以前に、テキストの選択自体が恣意性を免れえないことは改めて強調されねばならない。本稿が読者がイスラームを考えるための一助となれば、筆者の望外の幸せである。
最後に本稿で論じたものとは全く異なる発想が
これは メッセージ 4069 (askeri_inzibat_tr さん)への返信です.
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