延々とジコチューな妄想を並べられてもなぁ
投稿者: jyonnconner 投稿日時: 2006/12/03 15:27 投稿番号: [1229 / 2525]
http://members.aol.com/Filastiin2001/Oslo.htm
(前略)
≪オスロ合意の中身≫
このオスロ合意の中身は一体、いかなるものだったか。
大筋を言えば、
・ヨルダン川西岸とガザで5年間の暫定自治を実施
・自治期間の最後の2年の間に(パレスチナの)最終地位交渉を行う
というものだった。
パレスチナにとっては、この自治の後に当然「独立」が来るものだと思う。しかし実はこの内容は、「ただし」という但し書きが大変多いものだった。
すなわち、この暫定自治、実は完全自治区は西岸で3%、ガザで60%というものに過ぎなかった。ご存知の通り、イスラエルの急進派はパレスチナ人の土地に強引に入り込み、土地を奪い、不法に入植するという行為を繰り返してきた(占領地に入植することは国際法で禁じられている)。
この入植問題こそがパレスチナ人を今日にいたるまで最も苦しめてきた元凶だった。完全自治区がこれほどまでに少なくなったのは、この時点では入植地の解体は行われず、最終地位交渉まで持ち越す、という決定をしたためである。
そしてまた、西岸とガザの自治区を結ぶ道路をはじめ、一切の交通路はイスラエル管理、軍の撤退は約束されず「再配置」のみ、というものだった。これではパレスチナ人の地位は全く改善されない。
パレスチナ人は入植者、軍によって道路を封鎖され、隣の街に行くにもチェックポイントを通らなくてはならず、例え病人であっても、何時間も待たされなくてはならない。事実上、移動の自由が全くない状態である。また、この少ない自治領域も入植地でずたずたに分断され、どこに行くにもイスラエル人の入植地を通らなくてはならない、ということである。
これは「自治を享受する」というよりは、治安責任という面倒だけを押し付けられただけで、状況は全く変わらない、という、大多数のパレスチナ人にとっては、何の保証もないただの妥協の産物としか思えなかった。もちろん、「国」としての防衛、外交権は認められてはいない。この時点では(そして現在も)パレスチナ自治政府はイスラエルの多くの政党のうちの一つ、という扱いだった。
そして、現在まで最大の問題として残った難民(全パレスチナ人の50%以上)の帰還権も最終交渉へ持ち越された。
(中略)
パレスチナはパレスチナ人の故郷。なぜ、自治が与えられて帰還権が認められないのか。
オスロ合意は、イスラエル強硬派だけでなく、大多数のパレスチナ人にとっても「ジョークとしか思えない」協定に過ぎなかった。
(中略)
≪ネタニヤフ政権時代≫
和平推進派のペレスを破って首相となったネタニヤフは、前政権がとった「パレスチナを西岸とガザに囲い込む」政策から、伝統的な「パレスチナをイスラエルから追い出す」政策に逆戻りした。
ネタニヤフはラビンが凍結していた急進派ユダヤ教徒のイスラエル人の西岸とガザの中への入植を黙認、奨励した。
入植者は、重装備をしてトレーラーでやってきて、そのまま住み着く。これは土地の不法占拠にあたる。軍が出動しても急進派議員が「君たちは神が与えたイスラエルをどうしようというのか」と、軍の前に立ちはだかって阻止、世論も急進派の論調に乗って入植者への攻撃を非難する。自治政府の領土は寸断され、ばらばらになっていく。
既成事実の積み重ねによって気力を奪い、妥協、または自滅を誘う。これが、ネタニヤフの狙いだった。パレスチナ過激派がこれに反発してテロを行うと、「オスロ合意違反」と非難し、「アラファトは交渉相手として信用ならない」と、オスロ合意で約束された軍の「再配置」も遅らせてきた。そして、イスラエル軍からの「倍返し」が全く何の関係もないパレスチナの民衆に行われる。
ネタニヤフは、確信犯的に(あるジャーナリストによれば「マッチポンプ」的に)その在任期間の3年間、「オスロ合意」の破壊を行ってきた。
(後略)
---------------- -
オスロ合意自体もパレスチナ側にとって元々容易く受け入れられるような内容ではなかったがな。
ネタニヤフはそれすらも踏み躙ったゲス野郎だ。
しかし、バラク提案の難民帰還ねぇ。
パレスチナ難民の帰還は離散家族の再会としてのみ認め、イスラエルは難民問題の発生についての責任は負わない、なんぞというものが提案に値する訳もないな。
やっぱアホ弁。
(前略)
≪オスロ合意の中身≫
このオスロ合意の中身は一体、いかなるものだったか。
大筋を言えば、
・ヨルダン川西岸とガザで5年間の暫定自治を実施
・自治期間の最後の2年の間に(パレスチナの)最終地位交渉を行う
というものだった。
パレスチナにとっては、この自治の後に当然「独立」が来るものだと思う。しかし実はこの内容は、「ただし」という但し書きが大変多いものだった。
すなわち、この暫定自治、実は完全自治区は西岸で3%、ガザで60%というものに過ぎなかった。ご存知の通り、イスラエルの急進派はパレスチナ人の土地に強引に入り込み、土地を奪い、不法に入植するという行為を繰り返してきた(占領地に入植することは国際法で禁じられている)。
この入植問題こそがパレスチナ人を今日にいたるまで最も苦しめてきた元凶だった。完全自治区がこれほどまでに少なくなったのは、この時点では入植地の解体は行われず、最終地位交渉まで持ち越す、という決定をしたためである。
そしてまた、西岸とガザの自治区を結ぶ道路をはじめ、一切の交通路はイスラエル管理、軍の撤退は約束されず「再配置」のみ、というものだった。これではパレスチナ人の地位は全く改善されない。
パレスチナ人は入植者、軍によって道路を封鎖され、隣の街に行くにもチェックポイントを通らなくてはならず、例え病人であっても、何時間も待たされなくてはならない。事実上、移動の自由が全くない状態である。また、この少ない自治領域も入植地でずたずたに分断され、どこに行くにもイスラエル人の入植地を通らなくてはならない、ということである。
これは「自治を享受する」というよりは、治安責任という面倒だけを押し付けられただけで、状況は全く変わらない、という、大多数のパレスチナ人にとっては、何の保証もないただの妥協の産物としか思えなかった。もちろん、「国」としての防衛、外交権は認められてはいない。この時点では(そして現在も)パレスチナ自治政府はイスラエルの多くの政党のうちの一つ、という扱いだった。
そして、現在まで最大の問題として残った難民(全パレスチナ人の50%以上)の帰還権も最終交渉へ持ち越された。
(中略)
パレスチナはパレスチナ人の故郷。なぜ、自治が与えられて帰還権が認められないのか。
オスロ合意は、イスラエル強硬派だけでなく、大多数のパレスチナ人にとっても「ジョークとしか思えない」協定に過ぎなかった。
(中略)
≪ネタニヤフ政権時代≫
和平推進派のペレスを破って首相となったネタニヤフは、前政権がとった「パレスチナを西岸とガザに囲い込む」政策から、伝統的な「パレスチナをイスラエルから追い出す」政策に逆戻りした。
ネタニヤフはラビンが凍結していた急進派ユダヤ教徒のイスラエル人の西岸とガザの中への入植を黙認、奨励した。
入植者は、重装備をしてトレーラーでやってきて、そのまま住み着く。これは土地の不法占拠にあたる。軍が出動しても急進派議員が「君たちは神が与えたイスラエルをどうしようというのか」と、軍の前に立ちはだかって阻止、世論も急進派の論調に乗って入植者への攻撃を非難する。自治政府の領土は寸断され、ばらばらになっていく。
既成事実の積み重ねによって気力を奪い、妥協、または自滅を誘う。これが、ネタニヤフの狙いだった。パレスチナ過激派がこれに反発してテロを行うと、「オスロ合意違反」と非難し、「アラファトは交渉相手として信用ならない」と、オスロ合意で約束された軍の「再配置」も遅らせてきた。そして、イスラエル軍からの「倍返し」が全く何の関係もないパレスチナの民衆に行われる。
ネタニヤフは、確信犯的に(あるジャーナリストによれば「マッチポンプ」的に)その在任期間の3年間、「オスロ合意」の破壊を行ってきた。
(後略)
---------------- -
オスロ合意自体もパレスチナ側にとって元々容易く受け入れられるような内容ではなかったがな。
ネタニヤフはそれすらも踏み躙ったゲス野郎だ。
しかし、バラク提案の難民帰還ねぇ。
パレスチナ難民の帰還は離散家族の再会としてのみ認め、イスラエルは難民問題の発生についての責任は負わない、なんぞというものが提案に値する訳もないな。
やっぱアホ弁。
これは メッセージ 1225 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
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