オスロ合意
投稿者: jyonnconner 投稿日時: 2006/12/03 04:35 投稿番号: [1224 / 2525]
http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/Oslo.htm
オスロ合意とは1993年9月、イスラエルがはじめてパレスチナ解放機構(PLO)をパレスチナを代表する交渉当事者と認めて和平にむけた枠組みを直接交渉で取り決めたもので、①イスラエルとPLOの相互承認の交換書簡と、②イスラエルが占領する地域に5年間のパレスチナ暫定自治期間をもうけ、そのあいだに最終的な返還条件を決める交渉を行なうという「暫定自治の取り決めについての原則宣言」からなる。
交換書簡では、アラファートPLO議長がイスラエルの生存権を認め、テロ戦術を放棄して平和的な紛争解決をめざすことを表明し、ラビン・イスラエル首相はPLOをパレスチナ人の正式代表として認め、交渉を開始する意思を表明した。「原則宣言」では「5年を超えない移行期間のあいだに、ヨルダン川西岸地区とガザに暫定自治政府をつくり、国連安保理決議242および338(イスラエルの占領地からの全面撤退を要求)に基づく恒久解決に至る」とうたっている。
具体的なスケジュールとしては、①イスラエル軍は暫時撤退し、②西岸・ガザでパレスチナ自治政府の首長と評議会(議会)議員を選出、③暫定自治開始から3年以内にパレスチナの将来にかかわる重要問題(エルサレムの帰属、難民の帰還権、入植地の将来、国境など)を解決する最終地位交渉を開始し、自治開始後5年をめどに両者が歴史的和解を達成する、とされていた。
しかし1995.11のラビン暗殺でその実施は危うくなった。そもそも、オスロ合意はイスラエル労働党が米民主党とともに進めたもので、パレスチナ人との共存がうたい文句であった(それが真に共存をめざすものであったかどうかは、また別の問題である)。しかしイスラエルの右派は占領地も含め歴史的にパレスチナと呼ばれた地域のすべてを「イスラエルの土地」とみなしており、占領地(48年の国連分割案よりは狭いものの、現在ではパレスチナ人の土地として国際社会に承認されている西岸地区とガザ)からもパレスチナ人を追放することを公然と主張している
96年の総選挙で右派リクードが労働党を破りネタニヤフ内閣が成立するとオスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。不毛な3年間を経て99年5月にエフード・バラクの率いる労働党が政権に復帰すると、滞っていた和平交渉をふたたび活性化させようという動きが始まった(シャルム・エッシェイク合意)。78年にエジプトとの単独講和を結んだベギンやオスロ合意を結んだラビンの後継者をもって任ずるバラクは、パレスチナ人との最終和平合意を結ぼうという野心を持っていたが、彼が提案した内容はパレスチナが真に国家として独立するにはほど遠く、アラファート自治政府の承認をとりつけることはできなかった。
そうするうちに、イスラエルの抑圧的な占領政策の加速によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、解決の糸口が見えない占領状態の継続にパレスチナ住民の不満が募っていった。2000年9月のアル=アクサ・インティファーダと翌年2月のシャロン政権の誕生によって、オスロ和平プロセスは完全に崩壊した。
(後略)
--------------------
ラビン首相を暗殺したのは誰だい?
実際に和平を妨げてきたものは抑圧的な人種差別政策に反抗するパレスチナ人を「殺せ!追放せよ!」と叫んでいるオタクのお仲間の狂信的なバカどもだ。
しかし、すり替え&誤魔化し&自己欺瞞の人生って空しくないのかい?
ま、倫理腐らせて狂っていればそうでもないのかもしれないが。
オスロ合意とは1993年9月、イスラエルがはじめてパレスチナ解放機構(PLO)をパレスチナを代表する交渉当事者と認めて和平にむけた枠組みを直接交渉で取り決めたもので、①イスラエルとPLOの相互承認の交換書簡と、②イスラエルが占領する地域に5年間のパレスチナ暫定自治期間をもうけ、そのあいだに最終的な返還条件を決める交渉を行なうという「暫定自治の取り決めについての原則宣言」からなる。
交換書簡では、アラファートPLO議長がイスラエルの生存権を認め、テロ戦術を放棄して平和的な紛争解決をめざすことを表明し、ラビン・イスラエル首相はPLOをパレスチナ人の正式代表として認め、交渉を開始する意思を表明した。「原則宣言」では「5年を超えない移行期間のあいだに、ヨルダン川西岸地区とガザに暫定自治政府をつくり、国連安保理決議242および338(イスラエルの占領地からの全面撤退を要求)に基づく恒久解決に至る」とうたっている。
具体的なスケジュールとしては、①イスラエル軍は暫時撤退し、②西岸・ガザでパレスチナ自治政府の首長と評議会(議会)議員を選出、③暫定自治開始から3年以内にパレスチナの将来にかかわる重要問題(エルサレムの帰属、難民の帰還権、入植地の将来、国境など)を解決する最終地位交渉を開始し、自治開始後5年をめどに両者が歴史的和解を達成する、とされていた。
しかし1995.11のラビン暗殺でその実施は危うくなった。そもそも、オスロ合意はイスラエル労働党が米民主党とともに進めたもので、パレスチナ人との共存がうたい文句であった(それが真に共存をめざすものであったかどうかは、また別の問題である)。しかしイスラエルの右派は占領地も含め歴史的にパレスチナと呼ばれた地域のすべてを「イスラエルの土地」とみなしており、占領地(48年の国連分割案よりは狭いものの、現在ではパレスチナ人の土地として国際社会に承認されている西岸地区とガザ)からもパレスチナ人を追放することを公然と主張している
96年の総選挙で右派リクードが労働党を破りネタニヤフ内閣が成立するとオスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。不毛な3年間を経て99年5月にエフード・バラクの率いる労働党が政権に復帰すると、滞っていた和平交渉をふたたび活性化させようという動きが始まった(シャルム・エッシェイク合意)。78年にエジプトとの単独講和を結んだベギンやオスロ合意を結んだラビンの後継者をもって任ずるバラクは、パレスチナ人との最終和平合意を結ぼうという野心を持っていたが、彼が提案した内容はパレスチナが真に国家として独立するにはほど遠く、アラファート自治政府の承認をとりつけることはできなかった。
そうするうちに、イスラエルの抑圧的な占領政策の加速によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、解決の糸口が見えない占領状態の継続にパレスチナ住民の不満が募っていった。2000年9月のアル=アクサ・インティファーダと翌年2月のシャロン政権の誕生によって、オスロ和平プロセスは完全に崩壊した。
(後略)
--------------------
ラビン首相を暗殺したのは誰だい?
実際に和平を妨げてきたものは抑圧的な人種差別政策に反抗するパレスチナ人を「殺せ!追放せよ!」と叫んでいるオタクのお仲間の狂信的なバカどもだ。
しかし、すり替え&誤魔化し&自己欺瞞の人生って空しくないのかい?
ま、倫理腐らせて狂っていればそうでもないのかもしれないが。
これは メッセージ 1222 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834682/4hda5a4la5qa5la59a5aa5ja1aaa1jbha32hga1k_1/1224.html