「何かする」ということ
投稿者: yuyu10nen 投稿日時: 2005/11/27 17:28 投稿番号: [1055 / 1931]
そうですね
願わなければ、そもそも、実現しない、別のものが願う場合以外
願いは、それだけで、力です
そのことに、あまり気がついていない人が多い
流れ星が流れる間に、3回?願うなら、願いがかなうという意味も
似たような意味だろうと勝手に思っていますけどね^^
はたして、私たちは、本当に願っているかというと、
案外、願いと反対のことを願っていることがあります
また、意識的に願うことと、無意識的に願っていることが矛盾している
場合も。。。ある
トータルに願うということは、なかなか簡単なものでもない
願いとは、それだけで力です。
それは、個人的な範囲を超えて、私たちの潜在意識で共有されます
私たちの願いが、自己破壊的に向かうか、創造的調和へ向かうかは、
私たちの意識的な願う力にかかっています。
しかし、おおくの人間は、なかなか意識的創造的に願うということすら
難しくされています。
社会とか仕組み、、、またありとあらゆる手練手管によって、そうさせないように、仕向けられているからです。
支配のための支配にこだわる意識が、人間の自由への道をふさいでいます。
大きな外的内的現実の両方に壁があり、そこには、さまざまな障害物があり、しかも、その障害物には、意志があるときています
人間ってのは、なかなかやっかいな位置にありますね〜
「何かする」ことも、できない人間が、たくさんいます。
そういうふうに育てられたものが、たくさんいます。
それは、本当には、いわゆる個人としての人間の責任ではありません。
そうなさしめたその意識を管理支配するものの責任です。
職場で、学校で、軍隊で、家庭で、、、、インターネットを通じてさえ、、、、
人間を支配のために(<ここが問題だ)支配管理する意志が、蔓延しています。
ここにおいて、「何かする」前に不可欠な要素は、非暴力の生活を選ぶことでしょう
なぜなら、それによってのみ、あらゆる攻撃が、相手に戻るからです。
因果応報の法則があります
よって、自給自治には、日常の平和的な選択が、特に自分より自由のない存在
への意識されたやさしさや、思いやりが、大事になります。
これが、「何かする」中でも、意味のある行為であると思っています。
世界中に、そのような意識がたくさん存在するなら、どこであろうと戦争をする場合、戦争を仕掛ける魂のリスクがとても高くなります。
知りながら、そういうものを攻撃し、殺すと、、、その魂も同じ運命のカルマを背負うのです
支配意識にとって、人間は、復元可能な体の一部であり、トカゲの尻尾であり、
彼らは、その支配意識の魔法で、人間を操ります
しかし、その本体が、本当に困るのは、その本体の生命が奪われることであり、
それは、テロなどでは実現しません。
(実は組織的テロとか戦争は、人間支配意識の人間の
支配権の奪い合いなどを原因とする茶番劇である場合が多いのです)
それは、正しく生きるものを、彼らが不当に、取り扱い、、、因果応報で
その地位を失うことです。
それゆえに、みなが正しくやさしく、創造的に調和的に死を覚悟して生きるなら、
必然的に遅かれ早かれ平和に調和的になるしかありません。
そう、おそかれ、はやかれ。。。ね
さてと、、、、、平和的に生きる人が増えるように、、、
それが、支配意識にとっても、最終的に、生き延びる可能性になります。
では、、、、、その願う力で願わそうとか、、、思うものが、、、現れたりする
これは、間違い
平和的多様性とは、暴力的排他性の反対
強制は、因果応報の止む無き愛によらなければ、暴力になります。
ここに、実は隠された支配意識の仕掛け、、、また、創造意識のわなが
あるのですが、、、
まったく、、、困った世界ちゃんを造ったものです。
アー困った困った。。。
別に、死にたいわけでもないんだが。。。
願わなければ、そもそも、実現しない、別のものが願う場合以外
願いは、それだけで、力です
そのことに、あまり気がついていない人が多い
流れ星が流れる間に、3回?願うなら、願いがかなうという意味も
似たような意味だろうと勝手に思っていますけどね^^
はたして、私たちは、本当に願っているかというと、
案外、願いと反対のことを願っていることがあります
また、意識的に願うことと、無意識的に願っていることが矛盾している
場合も。。。ある
トータルに願うということは、なかなか簡単なものでもない
願いとは、それだけで力です。
それは、個人的な範囲を超えて、私たちの潜在意識で共有されます
私たちの願いが、自己破壊的に向かうか、創造的調和へ向かうかは、
私たちの意識的な願う力にかかっています。
しかし、おおくの人間は、なかなか意識的創造的に願うということすら
難しくされています。
社会とか仕組み、、、またありとあらゆる手練手管によって、そうさせないように、仕向けられているからです。
支配のための支配にこだわる意識が、人間の自由への道をふさいでいます。
大きな外的内的現実の両方に壁があり、そこには、さまざまな障害物があり、しかも、その障害物には、意志があるときています
人間ってのは、なかなかやっかいな位置にありますね〜
「何かする」ことも、できない人間が、たくさんいます。
そういうふうに育てられたものが、たくさんいます。
それは、本当には、いわゆる個人としての人間の責任ではありません。
そうなさしめたその意識を管理支配するものの責任です。
職場で、学校で、軍隊で、家庭で、、、、インターネットを通じてさえ、、、、
人間を支配のために(<ここが問題だ)支配管理する意志が、蔓延しています。
ここにおいて、「何かする」前に不可欠な要素は、非暴力の生活を選ぶことでしょう
なぜなら、それによってのみ、あらゆる攻撃が、相手に戻るからです。
因果応報の法則があります
よって、自給自治には、日常の平和的な選択が、特に自分より自由のない存在
への意識されたやさしさや、思いやりが、大事になります。
これが、「何かする」中でも、意味のある行為であると思っています。
世界中に、そのような意識がたくさん存在するなら、どこであろうと戦争をする場合、戦争を仕掛ける魂のリスクがとても高くなります。
知りながら、そういうものを攻撃し、殺すと、、、その魂も同じ運命のカルマを背負うのです
支配意識にとって、人間は、復元可能な体の一部であり、トカゲの尻尾であり、
彼らは、その支配意識の魔法で、人間を操ります
しかし、その本体が、本当に困るのは、その本体の生命が奪われることであり、
それは、テロなどでは実現しません。
(実は組織的テロとか戦争は、人間支配意識の人間の
支配権の奪い合いなどを原因とする茶番劇である場合が多いのです)
それは、正しく生きるものを、彼らが不当に、取り扱い、、、因果応報で
その地位を失うことです。
それゆえに、みなが正しくやさしく、創造的に調和的に死を覚悟して生きるなら、
必然的に遅かれ早かれ平和に調和的になるしかありません。
そう、おそかれ、はやかれ。。。ね
さてと、、、、、平和的に生きる人が増えるように、、、
それが、支配意識にとっても、最終的に、生き延びる可能性になります。
では、、、、、その願う力で願わそうとか、、、思うものが、、、現れたりする
これは、間違い
平和的多様性とは、暴力的排他性の反対
強制は、因果応報の止む無き愛によらなければ、暴力になります。
ここに、実は隠された支配意識の仕掛け、、、また、創造意識のわなが
あるのですが、、、
まったく、、、困った世界ちゃんを造ったものです。
アー困った困った。。。
別に、死にたいわけでもないんだが。。。
これは メッセージ 1054 (made_in_blue7896 さん)への返信です.
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