「愛」とは誰に向けるものなのか・・・
投稿者: rikudoukai_gedou 投稿日時: 2006/01/05 23:50 投稿番号: [327 / 973]
確か、そんなような話が「神との対話」にあったと思います。
ね?ブライテストさん。
皆さんは誰を一番愛してますか?
もっとも愛さなければならないのは・・・「自分」です。
ただ、愛することと、甘やかすことは違います。
自分を愛することは必要ですが、甘やかすことは必ずしも必要とばかりは言えないかもしれません。
「異性に愛されたい」とは誰もが思うことでしょう。
自分で自分のことを愛していないのに、他人に愛してもらえるでしょうか?
嫌いな自分を他人が愛するなんて不自然なことですよね。
ある方とお話ししていて、その方の奥様をほめると、
本心ではないのでしょうが、「愚妻です。」という言葉を聞きます。
自分の妻を「愚妻」と発したとき、奥様はその方の中で本当に愚妻に一歩近づいてしまいます。
「言霊」ですね。
もし、本当に自身の妻を「愚妻」と思っているのでしたら、その方自身が「愚鈍」なのです。
私も今まで幾人かの人とおつきあいをいたしました。
その中で、一人の元彼女もけなすところは見つかりません。
皆、とても素敵な女性ばかりでした。
私を愛してくれたのですから、当然のことです。
> 親に刃物をむけるほど、いのちの危機の中にいる子にたいして、
何故親は子を虐待し、子は親に刃物を向けるのでしょう?
そして、他人に対して、自然に対して優しさを持てないのでしょう?
それは、自分自身を愛していないからです。
自分自身を愛していれば、そのDNAを受け継いだ子供は自然に愛せるはずです。
また、そういう風に愛情を受けた子供ならば、親に刃物は向けないでしょう。
他人と諍いを起こすことは、自分の心をも傷つけます。
自分を愛しているなら、他人とそういう諍いは避けるはずです。
ほんの一言でも充分すぎるほどに気を遣い、話すでしょう。
自然も同じです。
自分を愛していれば、自分が育った環境を大切にしたいと考えます。
自分が癒される環境をいつまでも大切にしたいと考えるのが当たり前です。
「愛する」とは自分に向けるべき言葉だと思います。
自分を愛していれば、様々な愛が自分に向けられるものなのです。
> 「親の気持ちをわかれ。社会の気持ちをわかれ。相手の立場をわかれ。人の意見をききいれろ」
この言葉も愛はありませんよね。。。
「気持ちをわかれ」は押しつけです。
「わかれ」と言ってわかるものではありません。
言う方が愛情を持っていれば、きっと使わない言葉でしょう。
「人の意見を聞き入れろ」もそうです。
言いなりになることが愛ではありません。
互いに理解しあうことが愛だと思います。
> amirity0512さん
> 坐禅の「坐」は土(大地)の上で人と人が向き合っている事を表しておりますが、
> これは「私」と「貴方」ではなく、「私」と「もう一人の私」が対話している姿を表しているそうです。
はい、私も聞いたことがあります。
「もう一人の私との対話」は、とても意義のあることです。
こちらの皆さんも、ご自分なりに瞑想をなさっていることと思います。
坐禅という形で形式張る必要はありません。
(天外伺朗氏は坐禅の座り方を重視していらっしゃいますが・・・)
ただ、瞑想をするとき、自分と自分、或いは自分と自分の中にある何かとの対話をお楽しみください。
> 実は昨年13歳で亡くなった姪の名前なんです(孫は2歳で姪とは入院とかで行き違い、会ったことがないんです)。
3歳までのお子さんのほぼ100%は、霊を感じることができるそうです。
3歳を過ぎると、急激に霊を感じる力がなくなるのは何故でしょうか。
それは親や周りが霊の存在を否定してしまうからです。
無いものと決めつけることで、本人もないと思ってしまうからです。
こんな話を聞いたことがありますか?
ウンチは実は臭くないんです。
臭いと思うのは、親が子供に臭いものだと教えるからなのです。
それが証拠に、動物は自分のウンチの臭いを嗅ぎ、胃の調子が悪いときなど、口にさえします。
子供さんが霊を感じているのならば、それをあるがままに受け止めてください。
六道界 外道
ね?ブライテストさん。
皆さんは誰を一番愛してますか?
もっとも愛さなければならないのは・・・「自分」です。
ただ、愛することと、甘やかすことは違います。
自分を愛することは必要ですが、甘やかすことは必ずしも必要とばかりは言えないかもしれません。
「異性に愛されたい」とは誰もが思うことでしょう。
自分で自分のことを愛していないのに、他人に愛してもらえるでしょうか?
嫌いな自分を他人が愛するなんて不自然なことですよね。
ある方とお話ししていて、その方の奥様をほめると、
本心ではないのでしょうが、「愚妻です。」という言葉を聞きます。
自分の妻を「愚妻」と発したとき、奥様はその方の中で本当に愚妻に一歩近づいてしまいます。
「言霊」ですね。
もし、本当に自身の妻を「愚妻」と思っているのでしたら、その方自身が「愚鈍」なのです。
私も今まで幾人かの人とおつきあいをいたしました。
その中で、一人の元彼女もけなすところは見つかりません。
皆、とても素敵な女性ばかりでした。
私を愛してくれたのですから、当然のことです。
> 親に刃物をむけるほど、いのちの危機の中にいる子にたいして、
何故親は子を虐待し、子は親に刃物を向けるのでしょう?
そして、他人に対して、自然に対して優しさを持てないのでしょう?
それは、自分自身を愛していないからです。
自分自身を愛していれば、そのDNAを受け継いだ子供は自然に愛せるはずです。
また、そういう風に愛情を受けた子供ならば、親に刃物は向けないでしょう。
他人と諍いを起こすことは、自分の心をも傷つけます。
自分を愛しているなら、他人とそういう諍いは避けるはずです。
ほんの一言でも充分すぎるほどに気を遣い、話すでしょう。
自然も同じです。
自分を愛していれば、自分が育った環境を大切にしたいと考えます。
自分が癒される環境をいつまでも大切にしたいと考えるのが当たり前です。
「愛する」とは自分に向けるべき言葉だと思います。
自分を愛していれば、様々な愛が自分に向けられるものなのです。
> 「親の気持ちをわかれ。社会の気持ちをわかれ。相手の立場をわかれ。人の意見をききいれろ」
この言葉も愛はありませんよね。。。
「気持ちをわかれ」は押しつけです。
「わかれ」と言ってわかるものではありません。
言う方が愛情を持っていれば、きっと使わない言葉でしょう。
「人の意見を聞き入れろ」もそうです。
言いなりになることが愛ではありません。
互いに理解しあうことが愛だと思います。
> amirity0512さん
> 坐禅の「坐」は土(大地)の上で人と人が向き合っている事を表しておりますが、
> これは「私」と「貴方」ではなく、「私」と「もう一人の私」が対話している姿を表しているそうです。
はい、私も聞いたことがあります。
「もう一人の私との対話」は、とても意義のあることです。
こちらの皆さんも、ご自分なりに瞑想をなさっていることと思います。
坐禅という形で形式張る必要はありません。
(天外伺朗氏は坐禅の座り方を重視していらっしゃいますが・・・)
ただ、瞑想をするとき、自分と自分、或いは自分と自分の中にある何かとの対話をお楽しみください。
> 実は昨年13歳で亡くなった姪の名前なんです(孫は2歳で姪とは入院とかで行き違い、会ったことがないんです)。
3歳までのお子さんのほぼ100%は、霊を感じることができるそうです。
3歳を過ぎると、急激に霊を感じる力がなくなるのは何故でしょうか。
それは親や周りが霊の存在を否定してしまうからです。
無いものと決めつけることで、本人もないと思ってしまうからです。
こんな話を聞いたことがありますか?
ウンチは実は臭くないんです。
臭いと思うのは、親が子供に臭いものだと教えるからなのです。
それが証拠に、動物は自分のウンチの臭いを嗅ぎ、胃の調子が悪いときなど、口にさえします。
子供さんが霊を感じているのならば、それをあるがままに受け止めてください。
六道界 外道
これは メッセージ 1 (mizno_kirara さん)への返信です.
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