鯨と生きる 下関市係長鯨博士・岸本充弘
投稿者: r13812 投稿日時: 2012/03/07 20:20 投稿番号: [57433 / 62227]
山口の100人:/5
鯨と生きる
下関市係長・鯨博士、岸本充弘さん
/山口
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20120307ddlk35040422000c.html
◇繁栄の記憶、紡ぎ続け
「鯨博士」の異名をとる岸本充弘(46)がまだ幼い頃、下関は荷役や冷凍工場、ソーセージや缶詰の製造など鯨関連産業で活気にあふれた町だった。家族や親戚、知人ら周囲の誰かは鯨と関わっていた。町の繁栄の象徴だった鯨も、子供だった岸本には、毎週のように食卓に上る「くさい、固い、まずい」食材という存在でしかなかったけれど−−。
「あんなに大嫌いだった鯨に仕事で深く関わることになろうとは夢にも思いませんでした」。そう言うと、照れながら頭をかいた。現在、市水産課総務係長として鯨肉を使った学校給食の実施など鯨文化の普及啓発事業にあたる一方、関門地域の鯨産業史を研究して博士号を取得。鯨に関する著書は5冊(共著含む)、論文や寄稿は30本以上に上る。
■ □ ■
大学卒業後、銀行員などを経て91年に市役所に就職。ある日、市立水族館「海響館」(01年開館)の建設準備で地元水産業の資料収集を担当した際、フグやウニの資料は順調に集まったが、鯨は過去の水揚げ量や流通に関する資料がほとんどなく、困り果てた。かつて鯨肉を扱った水産加工業者に相談したが「資料はない」と、露骨に協力を拒む業者もいた。87年の商業捕鯨停止で鯨産業が衰退し、町も以前の活気を失ったとはいえ、この鯨への冷たさは何なのか。別の部署に異動後も胸のもやもやが晴れない。「専門的に勉強して原因を調べたい」。反対する周囲を説得し、在職のまま下関市立大大学院に入学した。
終業後の夜間や土日を研究に充てた。鮮魚運搬船の元乗組員や水産加工会社OBに話を聞き、商業捕鯨の停止後に多くの水産加工会社が関係資料を廃棄したことを知る。「反捕鯨世論が強い欧米を相手に商売する際、鯨を扱っていた過去が分かれば支障になると考えたのでしょう」。鯨とともに生きてきた人たちがその過去を消し去った事実から、鯨に将来を見いだせなくなった悲しみと苦悩が伝わる気がした。
■ □ ■
捕鯨船船長砲手、沖吉明(85)らが南氷洋で鯨を追っていた日本捕鯨の黄金期とは様変わりだ。鯨は市民の記憶からも失われつつある。岸本は、市内の小学校や講演会で捕鯨の歴史について話すこともあるが、下関に鯨産業があったことを知らない参加者も少なくない。捕鯨に関する世界情勢、日本の調査捕鯨の現状、鯨が減っているのかそうでないのかなど、あらゆる情報が足りない。
だが、かつて鯨が町にもたらした繁栄を記憶から完全に消し去っていいのか。自分のように鯨肉で育った人、食品加工や造船など関連産業で働いた人がまだたくさんいる今なら記憶をつなぎ止めることができ、それが商業捕鯨再開と町の活気を取り戻す力になるかもしれない。「もっと学び、もっと情報発信したい」。進むべき道が次第に見えてきた。
商業捕鯨の早期再開が難しいなか、下関市は捕鯨母船・日新丸を含む調査捕鯨船団の基地となることを当面の目標としている。副産物の鯨肉が水揚げされれば大きな経済効果も期待できるはず。幼い頃に味わった街の活気を思い浮かべ、言葉に力を込めた。
「下関では今も調査捕鯨船が出港する際、たくさんの住民が温かく見送ってくれる。鯨で栄えた町としての伝統が残っている。だからこそ、その鯨で少しでも町が活気を取り戻してほしい」
==============
◆プロフィル
◇きしもと・みつひろ
下関市立大大学院修士課程、北九州市立大大学院博士後期課程修了。学術博士。05年から1年間、日本鯨類研究所に出向。現在は市水産課に勤務する一方、市立大地域共創センター委嘱研究員も務める。
〔山口版〕
毎日新聞 2012年3月7日 地方版
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20120307ddlk35040422000c.html
◇繁栄の記憶、紡ぎ続け
「鯨博士」の異名をとる岸本充弘(46)がまだ幼い頃、下関は荷役や冷凍工場、ソーセージや缶詰の製造など鯨関連産業で活気にあふれた町だった。家族や親戚、知人ら周囲の誰かは鯨と関わっていた。町の繁栄の象徴だった鯨も、子供だった岸本には、毎週のように食卓に上る「くさい、固い、まずい」食材という存在でしかなかったけれど−−。
「あんなに大嫌いだった鯨に仕事で深く関わることになろうとは夢にも思いませんでした」。そう言うと、照れながら頭をかいた。現在、市水産課総務係長として鯨肉を使った学校給食の実施など鯨文化の普及啓発事業にあたる一方、関門地域の鯨産業史を研究して博士号を取得。鯨に関する著書は5冊(共著含む)、論文や寄稿は30本以上に上る。
■ □ ■
大学卒業後、銀行員などを経て91年に市役所に就職。ある日、市立水族館「海響館」(01年開館)の建設準備で地元水産業の資料収集を担当した際、フグやウニの資料は順調に集まったが、鯨は過去の水揚げ量や流通に関する資料がほとんどなく、困り果てた。かつて鯨肉を扱った水産加工業者に相談したが「資料はない」と、露骨に協力を拒む業者もいた。87年の商業捕鯨停止で鯨産業が衰退し、町も以前の活気を失ったとはいえ、この鯨への冷たさは何なのか。別の部署に異動後も胸のもやもやが晴れない。「専門的に勉強して原因を調べたい」。反対する周囲を説得し、在職のまま下関市立大大学院に入学した。
終業後の夜間や土日を研究に充てた。鮮魚運搬船の元乗組員や水産加工会社OBに話を聞き、商業捕鯨の停止後に多くの水産加工会社が関係資料を廃棄したことを知る。「反捕鯨世論が強い欧米を相手に商売する際、鯨を扱っていた過去が分かれば支障になると考えたのでしょう」。鯨とともに生きてきた人たちがその過去を消し去った事実から、鯨に将来を見いだせなくなった悲しみと苦悩が伝わる気がした。
■ □ ■
捕鯨船船長砲手、沖吉明(85)らが南氷洋で鯨を追っていた日本捕鯨の黄金期とは様変わりだ。鯨は市民の記憶からも失われつつある。岸本は、市内の小学校や講演会で捕鯨の歴史について話すこともあるが、下関に鯨産業があったことを知らない参加者も少なくない。捕鯨に関する世界情勢、日本の調査捕鯨の現状、鯨が減っているのかそうでないのかなど、あらゆる情報が足りない。
だが、かつて鯨が町にもたらした繁栄を記憶から完全に消し去っていいのか。自分のように鯨肉で育った人、食品加工や造船など関連産業で働いた人がまだたくさんいる今なら記憶をつなぎ止めることができ、それが商業捕鯨再開と町の活気を取り戻す力になるかもしれない。「もっと学び、もっと情報発信したい」。進むべき道が次第に見えてきた。
商業捕鯨の早期再開が難しいなか、下関市は捕鯨母船・日新丸を含む調査捕鯨船団の基地となることを当面の目標としている。副産物の鯨肉が水揚げされれば大きな経済効果も期待できるはず。幼い頃に味わった街の活気を思い浮かべ、言葉に力を込めた。
「下関では今も調査捕鯨船が出港する際、たくさんの住民が温かく見送ってくれる。鯨で栄えた町としての伝統が残っている。だからこそ、その鯨で少しでも町が活気を取り戻してほしい」
==============
◆プロフィル
◇きしもと・みつひろ
下関市立大大学院修士課程、北九州市立大大学院博士後期課程修了。学術博士。05年から1年間、日本鯨類研究所に出向。現在は市水産課に勤務する一方、市立大地域共創センター委嘱研究員も務める。
〔山口版〕
毎日新聞 2012年3月7日 地方版
これは メッセージ 54617 (r13*12 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834578/a45a4a2a1aabdt7afa1aaja7dfldbja4c0a1aa_1/57433.html