GPJ・乾し皮代表お気に入りディープエコ♪
投稿者: toripan1111 投稿日時: 2010/09/01 08:39 投稿番号: [47157 / 62227]
正味な話、「エコでロハスな私」を演出する為にしか役に立たない「ディープエコロジー」。
少なくとも、環境に悪影響を与えないイルカ漁や捕鯨反対に援用できるようなハナシじゃありません♪
従来型の理屈じゃ勝てないのを悟った反捕鯨ちゃんが、なんとかしてのらくら捕鯨批判をしたい場合にBGM的な装飾語として使うならば、今のところそれなりに効能はあるようですが・・・w
『ディープエコロジーの環境哲学−その意義と限界』
(抜粋)
〜第二に、ディープエコロジーは一種の「対抗理論」として成立した。たとえば、ディープエコロジーは、「自然保護」の理論を母体として成立した。自然保護の理論は、都市化と産業化の拡大にともなって森林が乱開発され、自然が失われてゆく傾向を批判する。そして、なによりもまず自然破壊をくい止め、自然の姿を守ることを目標とする。なかでも、ディープエコロジーの直接の祖先である保存派(preservationist)の自然保護理論は、人間の手による自然介入をぎりぎりまで否定し、原生自然の手つかずの保存を訴える。この理論は、自然を開発し管理しなければやっていけない人間社会の人間中心主義を、仮想敵とすることではじめて成立するような「対抗理論」である。対抗理論の難点は、それが体制理論を批判し否定するのには役に立つが、もし体制理論から社会運営のバトンを渡されたときに、それを担って運営してゆくだけの積極的かつ現実的な理論装置をもち合わせていない点にある。
たとえば、ディープエコロジーは環境開発や大規模農業やクルマ社会などを批判する。しかし、環境開発や大規模農業やクルマを本当にやめたとしたら、われわれはどうやって、大量の人口に食料と住居を確保し、現在の商品流通網と市場経済システムを崩壊させずに運営できるのだろうか。もちろん、ディープエコロジーも、地方分権政治、ローカルな流通システム、エコロジカルな交通システム、地域での自足的生活様式などの、実践的な処方箋を用意はしている。しかしそれらの処方箋は、環境、地理的位置、人口密度、所得、学歴などにめぐまれた一部のコミュニティでしか実現不可能なものである。社会あるいは国家全体をマネジメントするためには、ディープエコロジーが敵視する近代的でヒエラルキカルな社会運営システムが、いまのところどうしても必要となる。対抗理論の限界は、社会全体をマネジメントする際の積極的かつ現実的な理論装置をもてないところにある。ディープエコロジーは、この難点を、その根底において抱え込んでいると考えなければならない。
第三の限界は、ディープエコロジーが基本的には欧米の中産階級の白人の知的エリート(男性)を中心にして形成された点にある。その独特のオリエンタリズムや、神秘主義的傾向は、すでに近代化が完了して豊かで安全な生活を享受した人間の嗜好を反映している。A・サラーの言葉を借りれば「先進国の中流の人々が、宇宙論的な<トランスパーソナル的自己>を気ままに追求するときの、幻想とわがまま」に満ちているのである(41)。豊かな社会で成立したディープエコロジーの思想は、これから近代化を本格的に迎えようとする途上国の人々、あるいは否応なくディープエコロジカルな生活を余儀なくされていた途上国の人々にとって、思想的インパクトを欠くといわざるを得ない。砂漠地帯の住民は「森の生活」を享受できない。南北問題や人種問題、環境難民など、現代世界の構造的矛盾に対するディープエコロジーの知的対応は、きわめて貧弱である。以前に紹介したように、デュヴァルとセッションズは、地球上の人口を激減させる必要があると主張するが、そのときに最も大きなネックとなるのは第三世界の人口である。どのような方法でそれを実現するかを白紙にしたままで、このようなプランを出すのは、先進国エゴだと言われてもしかたがない。ブクチンが懸念しているように、この主張は、(第三世界の)過剰な人口を削減するためにはAIDSも歓迎であるという考え方へと容易に転化しかねない (42)。それを回避するためには、ディープエコロジーをいったん第三世界の多様で混乱した現実のなかに置いてみて、現在のディープエコロジーの枠組みを根底的に再考する必要がある。その際には、第三世界のエコロジー思想、とくに第三世界のエコフェミニズムから多くを学べるはずである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/deepeco.html
少なくとも、環境に悪影響を与えないイルカ漁や捕鯨反対に援用できるようなハナシじゃありません♪
従来型の理屈じゃ勝てないのを悟った反捕鯨ちゃんが、なんとかしてのらくら捕鯨批判をしたい場合にBGM的な装飾語として使うならば、今のところそれなりに効能はあるようですが・・・w
『ディープエコロジーの環境哲学−その意義と限界』
(抜粋)
〜第二に、ディープエコロジーは一種の「対抗理論」として成立した。たとえば、ディープエコロジーは、「自然保護」の理論を母体として成立した。自然保護の理論は、都市化と産業化の拡大にともなって森林が乱開発され、自然が失われてゆく傾向を批判する。そして、なによりもまず自然破壊をくい止め、自然の姿を守ることを目標とする。なかでも、ディープエコロジーの直接の祖先である保存派(preservationist)の自然保護理論は、人間の手による自然介入をぎりぎりまで否定し、原生自然の手つかずの保存を訴える。この理論は、自然を開発し管理しなければやっていけない人間社会の人間中心主義を、仮想敵とすることではじめて成立するような「対抗理論」である。対抗理論の難点は、それが体制理論を批判し否定するのには役に立つが、もし体制理論から社会運営のバトンを渡されたときに、それを担って運営してゆくだけの積極的かつ現実的な理論装置をもち合わせていない点にある。
たとえば、ディープエコロジーは環境開発や大規模農業やクルマ社会などを批判する。しかし、環境開発や大規模農業やクルマを本当にやめたとしたら、われわれはどうやって、大量の人口に食料と住居を確保し、現在の商品流通網と市場経済システムを崩壊させずに運営できるのだろうか。もちろん、ディープエコロジーも、地方分権政治、ローカルな流通システム、エコロジカルな交通システム、地域での自足的生活様式などの、実践的な処方箋を用意はしている。しかしそれらの処方箋は、環境、地理的位置、人口密度、所得、学歴などにめぐまれた一部のコミュニティでしか実現不可能なものである。社会あるいは国家全体をマネジメントするためには、ディープエコロジーが敵視する近代的でヒエラルキカルな社会運営システムが、いまのところどうしても必要となる。対抗理論の限界は、社会全体をマネジメントする際の積極的かつ現実的な理論装置をもてないところにある。ディープエコロジーは、この難点を、その根底において抱え込んでいると考えなければならない。
第三の限界は、ディープエコロジーが基本的には欧米の中産階級の白人の知的エリート(男性)を中心にして形成された点にある。その独特のオリエンタリズムや、神秘主義的傾向は、すでに近代化が完了して豊かで安全な生活を享受した人間の嗜好を反映している。A・サラーの言葉を借りれば「先進国の中流の人々が、宇宙論的な<トランスパーソナル的自己>を気ままに追求するときの、幻想とわがまま」に満ちているのである(41)。豊かな社会で成立したディープエコロジーの思想は、これから近代化を本格的に迎えようとする途上国の人々、あるいは否応なくディープエコロジカルな生活を余儀なくされていた途上国の人々にとって、思想的インパクトを欠くといわざるを得ない。砂漠地帯の住民は「森の生活」を享受できない。南北問題や人種問題、環境難民など、現代世界の構造的矛盾に対するディープエコロジーの知的対応は、きわめて貧弱である。以前に紹介したように、デュヴァルとセッションズは、地球上の人口を激減させる必要があると主張するが、そのときに最も大きなネックとなるのは第三世界の人口である。どのような方法でそれを実現するかを白紙にしたままで、このようなプランを出すのは、先進国エゴだと言われてもしかたがない。ブクチンが懸念しているように、この主張は、(第三世界の)過剰な人口を削減するためにはAIDSも歓迎であるという考え方へと容易に転化しかねない (42)。それを回避するためには、ディープエコロジーをいったん第三世界の多様で混乱した現実のなかに置いてみて、現在のディープエコロジーの枠組みを根底的に再考する必要がある。その際には、第三世界のエコロジー思想、とくに第三世界のエコフェミニズムから多くを学べるはずである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/deepeco.html
これは メッセージ 47155 (r13812 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1834578/a45a4a2a1aabdt7afa1aaja7dfldbja4c0a1aa_1/47157.html