甲申政変
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2004/01/01 02:42 投稿番号: [98277 / 232612]
韓国誌にしては、珍しいことを記事にしている。
1884年の甲申政変の当時、金玉均(キム・オッキュン)は34歳だった。 同氏は、22歳のとき科挙で首席合格したが、出世の道を追うよりは、西洋の先進文明を受け入れ、国を改革すべきとの「開化思想」に魅了されていた。 「日本が、東邦で英国の役割を果たそうとしているから、われわれは韓国をフランスにすべき」というのが金玉均の望みだった。 当時、同氏は3年間にわたって毎年日本を訪ね、開化運動に必要とされる資金を集めようとしたが、常に失敗していた。
しかし、同年、いよいよ朝鮮(チョソン、1392〜1910)を制圧していた清の勢力を追い出そうとする日本から、連係を約束してもらい、大事を起こした。 郵政局の開設を記念する披露宴が行われる日を選んで、王と王妃を昌徳宮(チャンドックン)から景祐宮(ソウル桂洞にある現代グループ社屋の敷地にあった朝鮮時代の霊屋)に移り動かせ、政権を引取った。 日本軍200人と朝鮮軍およそ50人が動員された。
大事の翌日、新政府の組織と構成員が発表された。 金玉均をはじめ、洪英植(ホン・ヨンシック)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐光範(ソ・クァンボム)、徐載弼(ソ・ジェピル)など両班(ヤンバン、朝鮮時代の支配階層)出身の青年知識人らが政府の要職を占めた。 翌日、改革政治の内容を盛り込んだ14カ条からなる「新政治の綱領」が発表された。 門閥を廃止し民の平等権を認め、奸吏と貪官、汚吏を処罰するなど韓半島歴史上初めての「上からの改革」だった。
しかし、明成皇后(ミョンソンファンフ、1851〜1895)の要請を受けた清の袁世凱が、軍事を率いて開化派を攻撃すると、「勢力の不利」を感じた日本が、約束を裏切って軍隊を撤退させることによって甲申政変は「3日天下」に終わってしまった。
甲申政変についての評価は、時代と観点によって食い違う。 興味深いのは、朴正煕(パク・ジョンヒ)政権と北朝鮮の金日成(キム・イルソン)政権は、一様に「自主的な近代化運動」「ブルジョア革命」とし、高く評価していたとの点だ。 朴露子(パク・ノジャ、ノルウェー・オスロ国立大)教授は、国家が「無所不為(不可能なことがないとの意)」の力を土台に、近代性を獲得すべきと考えていた2人の独裁者が、初めて「富国強兵のプロジェクト」を構成した金玉均らを先覚者として認識したのは、むしろ自然な結果だと指摘する。
しかし、最近は、否定的な評価がさらに多い。 ▽青年政治家らの無謀な突発的行動によって開化勢力が途方もない打撃を受け、その後の改革活動がはかどっていない点▽日本軍に頼った点▽無知な民の犠牲を呼び起こした人権意識の欠乏−−などが1884年の甲申政変の限界に選ばれる。
120年が流れ、再び「甲申の年」だ。 大統領の不正資金募金と関連した特別検察官の導入、総選挙などで、政変が予告されている。 04年の甲申政変はどんな姿だろうか。
李世正(イ・セジョン)論説委員
1884年の甲申政変の当時、金玉均(キム・オッキュン)は34歳だった。 同氏は、22歳のとき科挙で首席合格したが、出世の道を追うよりは、西洋の先進文明を受け入れ、国を改革すべきとの「開化思想」に魅了されていた。 「日本が、東邦で英国の役割を果たそうとしているから、われわれは韓国をフランスにすべき」というのが金玉均の望みだった。 当時、同氏は3年間にわたって毎年日本を訪ね、開化運動に必要とされる資金を集めようとしたが、常に失敗していた。
しかし、同年、いよいよ朝鮮(チョソン、1392〜1910)を制圧していた清の勢力を追い出そうとする日本から、連係を約束してもらい、大事を起こした。 郵政局の開設を記念する披露宴が行われる日を選んで、王と王妃を昌徳宮(チャンドックン)から景祐宮(ソウル桂洞にある現代グループ社屋の敷地にあった朝鮮時代の霊屋)に移り動かせ、政権を引取った。 日本軍200人と朝鮮軍およそ50人が動員された。
大事の翌日、新政府の組織と構成員が発表された。 金玉均をはじめ、洪英植(ホン・ヨンシック)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐光範(ソ・クァンボム)、徐載弼(ソ・ジェピル)など両班(ヤンバン、朝鮮時代の支配階層)出身の青年知識人らが政府の要職を占めた。 翌日、改革政治の内容を盛り込んだ14カ条からなる「新政治の綱領」が発表された。 門閥を廃止し民の平等権を認め、奸吏と貪官、汚吏を処罰するなど韓半島歴史上初めての「上からの改革」だった。
しかし、明成皇后(ミョンソンファンフ、1851〜1895)の要請を受けた清の袁世凱が、軍事を率いて開化派を攻撃すると、「勢力の不利」を感じた日本が、約束を裏切って軍隊を撤退させることによって甲申政変は「3日天下」に終わってしまった。
甲申政変についての評価は、時代と観点によって食い違う。 興味深いのは、朴正煕(パク・ジョンヒ)政権と北朝鮮の金日成(キム・イルソン)政権は、一様に「自主的な近代化運動」「ブルジョア革命」とし、高く評価していたとの点だ。 朴露子(パク・ノジャ、ノルウェー・オスロ国立大)教授は、国家が「無所不為(不可能なことがないとの意)」の力を土台に、近代性を獲得すべきと考えていた2人の独裁者が、初めて「富国強兵のプロジェクト」を構成した金玉均らを先覚者として認識したのは、むしろ自然な結果だと指摘する。
しかし、最近は、否定的な評価がさらに多い。 ▽青年政治家らの無謀な突発的行動によって開化勢力が途方もない打撃を受け、その後の改革活動がはかどっていない点▽日本軍に頼った点▽無知な民の犠牲を呼び起こした人権意識の欠乏−−などが1884年の甲申政変の限界に選ばれる。
120年が流れ、再び「甲申の年」だ。 大統領の不正資金募金と関連した特別検察官の導入、総選挙などで、政変が予告されている。 04年の甲申政変はどんな姿だろうか。
李世正(イ・セジョン)論説委員
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.