イラク占領政策はこの方向しかない?
投稿者: jouhoukikanin87 投稿日時: 2003/12/14 21:03 投稿番号: [95619 / 232612]
産経新聞2002年6月10日掲載)
八月十五日正午、終戦の詔勅が放送されました。
徹底抗戦派の抵抗があり、すべての措置は危機一髪の間に行われましたが、放送が済むとすぐに、鈴木貫太郎内閣は総辞職します。
後任には、まだ不穏な陸海軍の動向を考えると、皇族以外では、この難局を抑え切れないということで東久邇宮稔彦王に大命が下ります。
降伏式は、九月二日ミズーリ艦上でおこなわれました。日本歴史上最初の恥辱として誰も表に立つことを欲しなかったので、重光葵外相自ら、これに当たりました。
その直後にGHQ(連合国軍総司令部)から、驚くべき布告案が提示されます。
それは占領軍の命令に反する者は死刑以下の刑に処するとか、軍票を日本銀行券と同様に通用させるとか、日本の統治権の剥奪(はくだつ)を意味するものでした。
本来ポツダム宣言では、無条件降伏は軍隊だけで、民主化等は日本政府の責任で行うことになっています。この布告は外務省の必死の工作で差し止めてもらいますが、九月六日、米国政府は、五百旗頭真(いおきべ まこと)氏の表現を借りれば、「日本の敗戦と占領をめぐって米国政府が生産した文書のうち最も粗暴なる」文書により、マッカーサーに対して「日本との関係は、契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくものである……日本管理を日本政府を通じて行うのは、それが満足な成果をあげる限りである」と指示してきます。これは新任のアチソン国務長官代理が、日本を甘やかすなと進言した結果といいます。
≪武装解除で無力に≫
畢竟(ひっきょう)、国際政治は力の関係です。武装解除前ならば、そんなことをしたら軍の下部がおさまらない、鎮圧するのに百万の米軍が要(い)るというような説得も可能でしたが、もう日本側には、何の交渉力も残っていません。
日本はポツダム宣言の契約にしたがって降伏したのだと言ってもしょせんムダです。あとは日本側の誠意、またはへつらいで、占領軍が文明的に振る舞うのを期待するしかありません。これが占領七年間の基本構造となります。
東久邇宮は、皇族の中で、総理、閣僚として使える方といえば、この人しかないと衆目の一致していた人です。
陸軍士官学校では「皇族は厳しい訓練についていけないことを前提とした差別」に不満で、自ら厳しい訓練に立ち向かっていました。パリで陸軍大学三年の後、エコール・ポリティクで政治、外交を広く学び、クレマンソーとも交遊しました。
ある時、当時緊張していた日米関係について彼の意見を問うと、彼は「アメリカはドイツを叩いたから、次の戦争では日本を叩く。日本は外交が下手で短気だから、外交で苦しめて日本から戦争をしかけるようにもっていく。戦争になれば日本は敵(かな)わないから、我慢して戦争しないように」と忠告しました。
東久邇宮は、真珠湾の前に東条英機にこの話をしましたが、東条は今や勝つチャンスに賭けるしかない、と言ったといいます。
東久邇宮は、西園寺公望とも親しく、フランス仕込みのリベラルな考えをもち続けていました。
就任の言葉では、まず、聖旨を奉戴(ほうたい)して一糸乱れず平和裡に降伏することを訴えます。もちろんこれが第一の任務です。そして厚木の部隊の反乱を抑え、無事にマッカーサーを迎える任務を果たします。
そして、次に新日本の建設については、他のことに一切ふれず、活発な言論と公正な世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言します。
そして翌日の閣議で、すべての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、憲兵隊の政治活動を禁止しました。後にマッカーサーと会見した時も、共産党などの釈放は危険ではないか、と懸念を表明したのはむしろ米側で、東久邇宮は、過激思想に対しては「言いたいことを言わせた方がよい」と言っています。ただ、東久邇宮内閣は、自由化政策の方針表明だけで、具体的実施に入る前に退陣します。
一つには占領軍受け入れ、武装解除と復員、応急の戦災復興等に忙殺されたからですが、同時に内務省には、自由化実施の法制改正に着手するだけの実務上と精神的準備がなかったからです。このことが結果として東久邇宮内閣辞任の原因となります。
八月十五日正午、終戦の詔勅が放送されました。
徹底抗戦派の抵抗があり、すべての措置は危機一髪の間に行われましたが、放送が済むとすぐに、鈴木貫太郎内閣は総辞職します。
後任には、まだ不穏な陸海軍の動向を考えると、皇族以外では、この難局を抑え切れないということで東久邇宮稔彦王に大命が下ります。
降伏式は、九月二日ミズーリ艦上でおこなわれました。日本歴史上最初の恥辱として誰も表に立つことを欲しなかったので、重光葵外相自ら、これに当たりました。
その直後にGHQ(連合国軍総司令部)から、驚くべき布告案が提示されます。
それは占領軍の命令に反する者は死刑以下の刑に処するとか、軍票を日本銀行券と同様に通用させるとか、日本の統治権の剥奪(はくだつ)を意味するものでした。
本来ポツダム宣言では、無条件降伏は軍隊だけで、民主化等は日本政府の責任で行うことになっています。この布告は外務省の必死の工作で差し止めてもらいますが、九月六日、米国政府は、五百旗頭真(いおきべ まこと)氏の表現を借りれば、「日本の敗戦と占領をめぐって米国政府が生産した文書のうち最も粗暴なる」文書により、マッカーサーに対して「日本との関係は、契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくものである……日本管理を日本政府を通じて行うのは、それが満足な成果をあげる限りである」と指示してきます。これは新任のアチソン国務長官代理が、日本を甘やかすなと進言した結果といいます。
≪武装解除で無力に≫
畢竟(ひっきょう)、国際政治は力の関係です。武装解除前ならば、そんなことをしたら軍の下部がおさまらない、鎮圧するのに百万の米軍が要(い)るというような説得も可能でしたが、もう日本側には、何の交渉力も残っていません。
日本はポツダム宣言の契約にしたがって降伏したのだと言ってもしょせんムダです。あとは日本側の誠意、またはへつらいで、占領軍が文明的に振る舞うのを期待するしかありません。これが占領七年間の基本構造となります。
東久邇宮は、皇族の中で、総理、閣僚として使える方といえば、この人しかないと衆目の一致していた人です。
陸軍士官学校では「皇族は厳しい訓練についていけないことを前提とした差別」に不満で、自ら厳しい訓練に立ち向かっていました。パリで陸軍大学三年の後、エコール・ポリティクで政治、外交を広く学び、クレマンソーとも交遊しました。
ある時、当時緊張していた日米関係について彼の意見を問うと、彼は「アメリカはドイツを叩いたから、次の戦争では日本を叩く。日本は外交が下手で短気だから、外交で苦しめて日本から戦争をしかけるようにもっていく。戦争になれば日本は敵(かな)わないから、我慢して戦争しないように」と忠告しました。
東久邇宮は、真珠湾の前に東条英機にこの話をしましたが、東条は今や勝つチャンスに賭けるしかない、と言ったといいます。
東久邇宮は、西園寺公望とも親しく、フランス仕込みのリベラルな考えをもち続けていました。
就任の言葉では、まず、聖旨を奉戴(ほうたい)して一糸乱れず平和裡に降伏することを訴えます。もちろんこれが第一の任務です。そして厚木の部隊の反乱を抑え、無事にマッカーサーを迎える任務を果たします。
そして、次に新日本の建設については、他のことに一切ふれず、活発な言論と公正な世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言します。
そして翌日の閣議で、すべての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、憲兵隊の政治活動を禁止しました。後にマッカーサーと会見した時も、共産党などの釈放は危険ではないか、と懸念を表明したのはむしろ米側で、東久邇宮は、過激思想に対しては「言いたいことを言わせた方がよい」と言っています。ただ、東久邇宮内閣は、自由化政策の方針表明だけで、具体的実施に入る前に退陣します。
一つには占領軍受け入れ、武装解除と復員、応急の戦災復興等に忙殺されたからですが、同時に内務省には、自由化実施の法制改正に着手するだけの実務上と精神的準備がなかったからです。このことが結果として東久邇宮内閣辞任の原因となります。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.