小倉紀蔵の韓国のキリスト教
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2003/11/29 23:26 投稿番号: [94238 / 232612]
hangyosyufu さん、キリスト教に関する資料提供ありがとうございます。
人口の3分の1というのは日本人の私には驚きです。
とはいいつつ、信仰と行動は千差万別かと思いますが。
たまたま、韓国系のHPをみていたら小倉紀蔵の韓国にキリスト教のこのが載っていました。
この「統一日報」という新聞は、
在日韓国居留民団系のものと解釈しています。
ところで、小倉紀蔵は「韓国は一個の哲学である」とか「韓国人のしくくみ」という新書を書いている人です。
彼の韓国人理解の基本は<「理」と「気」の世界で説きます>
ところで、読んでいる途中は分かったつもりでも、後にはなかなか残りませんでした。
「理と気」を理解していると、以下の説明もよく分かるのですが。
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韓国でなぜこれほどキリスト教が盛んであるかは多くの論者が論じているが、これを最も簡単に説明するためには、儒教の「理」「気」というものを知っていなければならない。「理」とは道徳性・原理・道徳・理念・理性であり、「気」とは物質性・身体・感情・感性・利益などをいう。
カトリックは朝鮮王朝後期にはいって来、数度の大弾圧を被った。プロテスタントは19世紀終わりにはいって来て、医療や教育事業とともに浸透した。
この国におけるキリスト教信者の類型は二つである。ひとつは、儒教的「理」(仁義)に代わる新しい水平的な「理」として理性的な信仰を生み、抗日運動や民主化運動の重要な部分を担った。社会のエリート層の信仰はこの類型である。これに対してもうひとつの類型は、シャーマニズムおよび仏教を吸収し、魂の救済の側面を強めながら膨張した。抑圧され貧しい生活にあえぐ庶民の信仰はこれである。
私は前者を〈理のキリスト教〉、後者を〈気のキリスト教〉と呼ぶ。〈理のキリスト教〉は理性を前面に打ち出し、社会における「義」の実現を第一に考える。これに対して〈気のキリスト教〉は感性を前面に打ち出し、個人の「救済」という利益や霊性を第一に据える。しかしこう区分したからといって、前者が「気」を排除するものであるとか、後者は「理」に対抗するものであるなどと把えてはならない。理気はつねに不相離(相離れず)なのである。ただ、信者の存立する精神的基盤が両者のうちどちらにあるかを示したにすぎない。
〈理のキリスト教〉の典型的存在は明洞聖堂と金寿煥枢機卿であろう。かつて民主化運動華やかなりし頃、運動はこの聖堂をひとつの巨大な求心力として展開していった。ミサで金寿煥枢機卿が何を語るか、ということが国民の大きな関心事であった。明洞聖堂の敷地は国家権力に対するアジール(逃避場)として、民主化運動家たちの聖地であった。
これに対し、〈気のキリスト教〉として出発し、規模面において最も大きな成功を収めたものに純福音教会がある。私も韓国に暮らし始めた当初、貧しい界隈に住んでいたためか、この教会への参加を人びとによく誘われたものだ。汝矣島の大教会にも何度か行ったが、電子メディアを駆使した壮大なスペクタクルは、まさに感情の坩堝であった。
「朝鮮のクリスチャンほどに聖書に通じたクリスチャンがまだ世界にいるのかも知れないが、いまだに私はそうした人々に出会う喜びをもちえていない」とすでに20世紀初めにアメリカ人にいわせた(柳東植、『韓国のキリスト教』)ように、〈理のキリスト教〉も〈気のキリスト教〉も、その原理性の純度はきわめて高い。今でも韓国で地下鉄に乗れば、聖書を一生懸命暗記している人をよく見かけるのである。
http://www.onekoreanews.net/20031119/bunka20031119002.htm
人口の3分の1というのは日本人の私には驚きです。
とはいいつつ、信仰と行動は千差万別かと思いますが。
たまたま、韓国系のHPをみていたら小倉紀蔵の韓国にキリスト教のこのが載っていました。
この「統一日報」という新聞は、
在日韓国居留民団系のものと解釈しています。
ところで、小倉紀蔵は「韓国は一個の哲学である」とか「韓国人のしくくみ」という新書を書いている人です。
彼の韓国人理解の基本は<「理」と「気」の世界で説きます>
ところで、読んでいる途中は分かったつもりでも、後にはなかなか残りませんでした。
「理と気」を理解していると、以下の説明もよく分かるのですが。
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韓国でなぜこれほどキリスト教が盛んであるかは多くの論者が論じているが、これを最も簡単に説明するためには、儒教の「理」「気」というものを知っていなければならない。「理」とは道徳性・原理・道徳・理念・理性であり、「気」とは物質性・身体・感情・感性・利益などをいう。
カトリックは朝鮮王朝後期にはいって来、数度の大弾圧を被った。プロテスタントは19世紀終わりにはいって来て、医療や教育事業とともに浸透した。
この国におけるキリスト教信者の類型は二つである。ひとつは、儒教的「理」(仁義)に代わる新しい水平的な「理」として理性的な信仰を生み、抗日運動や民主化運動の重要な部分を担った。社会のエリート層の信仰はこの類型である。これに対してもうひとつの類型は、シャーマニズムおよび仏教を吸収し、魂の救済の側面を強めながら膨張した。抑圧され貧しい生活にあえぐ庶民の信仰はこれである。
私は前者を〈理のキリスト教〉、後者を〈気のキリスト教〉と呼ぶ。〈理のキリスト教〉は理性を前面に打ち出し、社会における「義」の実現を第一に考える。これに対して〈気のキリスト教〉は感性を前面に打ち出し、個人の「救済」という利益や霊性を第一に据える。しかしこう区分したからといって、前者が「気」を排除するものであるとか、後者は「理」に対抗するものであるなどと把えてはならない。理気はつねに不相離(相離れず)なのである。ただ、信者の存立する精神的基盤が両者のうちどちらにあるかを示したにすぎない。
〈理のキリスト教〉の典型的存在は明洞聖堂と金寿煥枢機卿であろう。かつて民主化運動華やかなりし頃、運動はこの聖堂をひとつの巨大な求心力として展開していった。ミサで金寿煥枢機卿が何を語るか、ということが国民の大きな関心事であった。明洞聖堂の敷地は国家権力に対するアジール(逃避場)として、民主化運動家たちの聖地であった。
これに対し、〈気のキリスト教〉として出発し、規模面において最も大きな成功を収めたものに純福音教会がある。私も韓国に暮らし始めた当初、貧しい界隈に住んでいたためか、この教会への参加を人びとによく誘われたものだ。汝矣島の大教会にも何度か行ったが、電子メディアを駆使した壮大なスペクタクルは、まさに感情の坩堝であった。
「朝鮮のクリスチャンほどに聖書に通じたクリスチャンがまだ世界にいるのかも知れないが、いまだに私はそうした人々に出会う喜びをもちえていない」とすでに20世紀初めにアメリカ人にいわせた(柳東植、『韓国のキリスト教』)ように、〈理のキリスト教〉も〈気のキリスト教〉も、その原理性の純度はきわめて高い。今でも韓国で地下鉄に乗れば、聖書を一生懸命暗記している人をよく見かけるのである。
http://www.onekoreanews.net/20031119/bunka20031119002.htm
これは メッセージ 94219 (hangyosyufu さん)への返信です.