聖徳太子
投稿者: rachi_yamero 投稿日時: 2003/11/26 00:52 投稿番号: [93904 / 232612]
しょうとくたいし
しやうとく― 【聖徳太子】
(1)(574-622) 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。上宮太子(うえのみやのみこ)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。聖徳太子は諡号(しごう)。推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。小野妹子(いもこ)を隋に派遣して国交を開いた。また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。著「三経義疏」
(2)かつて聖徳太子の肖像が印刷されていた紙幣の俗称。一万円札、それ以前は千円札をさした。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
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http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552018654&tid=bbyfaa4oba9jl8la4ga4oa4ja4a4a4accf9q a4oba9jl8la4ga49&sid=552018654&mid=23
西暦607年、推古天皇の摂政であった聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を代表とする外交使節団を隋に派遣しました。当時の支那を支配していた隋の皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書には次のように書いてあります。
「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」
支那は「中国」を自称する大国ですから当然この国書の内容は煬帝を激怒させました。服属すべき蛮族の支配者が「天子」を名乗り、支那の皇帝と対等である、あるいは支那の皇帝より上位にあるのだと言外に語っているわけです。この国書は日本の歴史上、最も重要な外交文書であり、日本は支那に柵封し服属する国ではないと宣言したのです。このとき日本は支那に対して独立宣言をしたのです。
「天皇」という名称も「日本」という国名もこの頃から使用されるようになりました。「日本」という国名は「日出づる処」という意味で、絶対に支那に服属しない決意を表わした国名です。日本書紀という歴史書を編纂したのもこの頃で、日本が支那に劣らない文明国であることを証明するためでした。
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http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835368&tid=cf9qa4rc053na4kmfd2ra47a4dea47a4ga4a 6&sid=1835368&mid=8398
ちなみに「倭」はコビトまたはコビトの国のことから、「したがう」意味のあきらかな蔑称です。古代の日本は支那からそのように呼ばれていたことから「倭」を自称していた時期もありましたが、これが蔑称であることを知り、文字を「和」に置き換え、さらに「大」を付けて「大和」を自称するようになりました。聖徳太子十七条憲法「一曰。以和為貴。無忤為宗。」(一に曰く、和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す。)は国号としての「和」の意味のかけことばになっていると考えられています。
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聖徳太子は日本の国のありようの基礎を築いたあまりにも重要な人物ですが、我が国の重要な時代の重要な業績をひとりで成し遂げたスーパーマンであるが故に実在の人物ではないとの説もあります。厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子は実在の人物でしょうが、実際は当時の大和朝廷の総意に基づく国家的事業の功績をひとりの皇子のものとしたのではないかとも考えられます。
三省堂デイリーコンサイス英和/和英辞典(英和と和英が一冊になった16cm×9cmの小さい辞典)によると、摂政の宮は英語でPrince Regentというそうです。
(1)(574-622) 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。上宮太子(うえのみやのみこ)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。聖徳太子は諡号(しごう)。推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。小野妹子(いもこ)を隋に派遣して国交を開いた。また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。著「三経義疏」
(2)かつて聖徳太子の肖像が印刷されていた紙幣の俗称。一万円札、それ以前は千円札をさした。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
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西暦607年、推古天皇の摂政であった聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を代表とする外交使節団を隋に派遣しました。当時の支那を支配していた隋の皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書には次のように書いてあります。
「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」
支那は「中国」を自称する大国ですから当然この国書の内容は煬帝を激怒させました。服属すべき蛮族の支配者が「天子」を名乗り、支那の皇帝と対等である、あるいは支那の皇帝より上位にあるのだと言外に語っているわけです。この国書は日本の歴史上、最も重要な外交文書であり、日本は支那に柵封し服属する国ではないと宣言したのです。このとき日本は支那に対して独立宣言をしたのです。
「天皇」という名称も「日本」という国名もこの頃から使用されるようになりました。「日本」という国名は「日出づる処」という意味で、絶対に支那に服属しない決意を表わした国名です。日本書紀という歴史書を編纂したのもこの頃で、日本が支那に劣らない文明国であることを証明するためでした。
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ちなみに「倭」はコビトまたはコビトの国のことから、「したがう」意味のあきらかな蔑称です。古代の日本は支那からそのように呼ばれていたことから「倭」を自称していた時期もありましたが、これが蔑称であることを知り、文字を「和」に置き換え、さらに「大」を付けて「大和」を自称するようになりました。聖徳太子十七条憲法「一曰。以和為貴。無忤為宗。」(一に曰く、和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す。)は国号としての「和」の意味のかけことばになっていると考えられています。
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聖徳太子は日本の国のありようの基礎を築いたあまりにも重要な人物ですが、我が国の重要な時代の重要な業績をひとりで成し遂げたスーパーマンであるが故に実在の人物ではないとの説もあります。厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子は実在の人物でしょうが、実際は当時の大和朝廷の総意に基づく国家的事業の功績をひとりの皇子のものとしたのではないかとも考えられます。
三省堂デイリーコンサイス英和/和英辞典(英和と和英が一冊になった16cm×9cmの小さい辞典)によると、摂政の宮は英語でPrince Regentというそうです。
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