新たに4人が「拉致濃厚」=2
投稿者: sa_bo_ten_02 投稿日時: 2003/11/21 21:37 投稿番号: [93502 / 232612]
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脱北した国家安全保衛部の幹部だった権華氏[クオンヒヨク](43)の証言(FRIDAY5/2号)
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佐々木悦子さん埼玉県浦和市
27歳(81年4月22日失踪当時)
「この女性とは94年6月に5454部隊の本庁舎2階にある通信局で会いました。なぜ詳しく覚えているかというと、私の誕生日が6月21日で、長年の友人だった語学参謀長が『今日はいい女を紹介してやる』と言って、会わせてくれたからです」 (権氏)
5454部隊は、平壌市東大院区三馬洞にある。前述したように、日本攻撃を目的とした特殊部隊で、金日成直属の親衛隊として知られていた。
権氏が57軍校から5454部隊に異動となったのは金正日総書記(政治委員会委員・当時) の配慮だったという。
「57軍校の任務は在日米軍基地などを標的とした肉弾攻撃で、入隊したら生きては帰れない決死隊です。そのことを心配した母が、金正日の側近だった叔父を通じて金正日に異動を嘆願したところ、『それなら5454に行った方がいいだろう』と、私を5454部隊に異動させてくれたのです」 (権氏)
その5454部隊に「通信局」があり、そのなかに日本の電波を傍受していた専門セクションがあったという。権氏が続ける。
「このセクションには30人ほどの日本人がいました。その中に最近拉致してきた、頭のよい美人がいるという噂は聞いていました。彼女は言葉を覚えるのも早かったそうです。通信局にはなかなか入れませんが、語学参謀長が特別に入室を許可してくれたんです。彼女は通信の解析などをする電波探知所で探知機の前でタイプか何かを打っていました。明るくて、日本人の友達が多かったようです。風貌からもいい暮らしをしているように見えました」
失踪当時、悦子さんは結婚5年目、浦和市内 (現さいたま市) で銀行のパートをしながら、夫の両親と同居していた。ところが、仕事が休みにもかかわらず、なぜか悦子さんは「銀行に出勤する」と言い残したまま、行方がわからなくなってしまった。もし権氏の証言通り、悦子さんが北朝鮮に拉致されたとしたなら、内陸部の埼玉県から海岸まで何者かにおびき寄せられたのだろうか。
権氏の証言に、悦子さんの母・アイ子さん(64)がこう絶句する。
「そうですか、北朝鮮であの娘を見かけたんですか。少しだけ、光が見えてきたかなあ……。もともと体の弱かった主人は心労が重なり、92年に入院してしまいました。『悦子がいる』と言って点滴を付けたまま、入院中の病室を見て回ったこともありました。主人が亡くなったのはその2カ月後でした。私は元気に生きていないといけないですね。あの娘に会えなくなると困りますから」
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斉藤裕さん 北海道稚内市
18歳(88年12月1日失踪当時)
高校3年生だった裕さんは自宅で夕食を終え、「友達のところへ行ってくる」と出かけたきり、行方知れずになった。
「茶色のタートルネックにサンダル履きの軽装。お金もそんなに持っていませんでした」 (姉の由美子さん)
その裕さんを権氏は、「朝鮮人民軍偵察指導局の日本語教官だった」と証言する。
「この人物と最初に出会ったのは78年5 月のことです。当時、私は57軍校の9大隊に所属する中尉でした。9大隊は黄海北道谷山郡にあり、そこで彼は日本の風習を教えていました。階級は大尉で、所属は57軍校のチョンボン邑にある指揮部だと思います。ただ、授業の印象は悪かった。ちょっとでもおしゃべりをすると学生を立たせたり、とにかく厳しい教官だったからです。みんな陰ではチョッパリ(日本人の蔑称)と呼んでいました。79年には泰川の軍官学校で日本語の教官もしていました。ヨンスン先生と呼ばれ、日本の自衛隊について詳しかったのを覚えています」
斉藤さんの親戚には自衛官がいて、稚内市内に当時から自衛隊があったのはたしかだ。が、この人物に関する証言には首を傾げてしまう部分もある。
「この教官は身長170Cmほどでした」
が、由美子さんに確認すると、失踪当時の裕さんは160Cmと小柄だった。顔は似ていても、別の人物だった可能性もある。
いずれにしてもこの教官が日本人であることは疑いのない事実だ。
「小泉首相が訪朝するまでは裕の失踪を拉致と関連づけて考えたこともありませんでした。もし、裕が北朝鮮で生きているとしたら、これほどありがたいことはありません」 (由美子さん)
電脳補完禄より
脱北した国家安全保衛部の幹部だった権華氏[クオンヒヨク](43)の証言(FRIDAY5/2号)
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佐々木悦子さん埼玉県浦和市
27歳(81年4月22日失踪当時)
「この女性とは94年6月に5454部隊の本庁舎2階にある通信局で会いました。なぜ詳しく覚えているかというと、私の誕生日が6月21日で、長年の友人だった語学参謀長が『今日はいい女を紹介してやる』と言って、会わせてくれたからです」 (権氏)
5454部隊は、平壌市東大院区三馬洞にある。前述したように、日本攻撃を目的とした特殊部隊で、金日成直属の親衛隊として知られていた。
権氏が57軍校から5454部隊に異動となったのは金正日総書記(政治委員会委員・当時) の配慮だったという。
「57軍校の任務は在日米軍基地などを標的とした肉弾攻撃で、入隊したら生きては帰れない決死隊です。そのことを心配した母が、金正日の側近だった叔父を通じて金正日に異動を嘆願したところ、『それなら5454に行った方がいいだろう』と、私を5454部隊に異動させてくれたのです」 (権氏)
その5454部隊に「通信局」があり、そのなかに日本の電波を傍受していた専門セクションがあったという。権氏が続ける。
「このセクションには30人ほどの日本人がいました。その中に最近拉致してきた、頭のよい美人がいるという噂は聞いていました。彼女は言葉を覚えるのも早かったそうです。通信局にはなかなか入れませんが、語学参謀長が特別に入室を許可してくれたんです。彼女は通信の解析などをする電波探知所で探知機の前でタイプか何かを打っていました。明るくて、日本人の友達が多かったようです。風貌からもいい暮らしをしているように見えました」
失踪当時、悦子さんは結婚5年目、浦和市内 (現さいたま市) で銀行のパートをしながら、夫の両親と同居していた。ところが、仕事が休みにもかかわらず、なぜか悦子さんは「銀行に出勤する」と言い残したまま、行方がわからなくなってしまった。もし権氏の証言通り、悦子さんが北朝鮮に拉致されたとしたなら、内陸部の埼玉県から海岸まで何者かにおびき寄せられたのだろうか。
権氏の証言に、悦子さんの母・アイ子さん(64)がこう絶句する。
「そうですか、北朝鮮であの娘を見かけたんですか。少しだけ、光が見えてきたかなあ……。もともと体の弱かった主人は心労が重なり、92年に入院してしまいました。『悦子がいる』と言って点滴を付けたまま、入院中の病室を見て回ったこともありました。主人が亡くなったのはその2カ月後でした。私は元気に生きていないといけないですね。あの娘に会えなくなると困りますから」
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斉藤裕さん 北海道稚内市
18歳(88年12月1日失踪当時)
高校3年生だった裕さんは自宅で夕食を終え、「友達のところへ行ってくる」と出かけたきり、行方知れずになった。
「茶色のタートルネックにサンダル履きの軽装。お金もそんなに持っていませんでした」 (姉の由美子さん)
その裕さんを権氏は、「朝鮮人民軍偵察指導局の日本語教官だった」と証言する。
「この人物と最初に出会ったのは78年5 月のことです。当時、私は57軍校の9大隊に所属する中尉でした。9大隊は黄海北道谷山郡にあり、そこで彼は日本の風習を教えていました。階級は大尉で、所属は57軍校のチョンボン邑にある指揮部だと思います。ただ、授業の印象は悪かった。ちょっとでもおしゃべりをすると学生を立たせたり、とにかく厳しい教官だったからです。みんな陰ではチョッパリ(日本人の蔑称)と呼んでいました。79年には泰川の軍官学校で日本語の教官もしていました。ヨンスン先生と呼ばれ、日本の自衛隊について詳しかったのを覚えています」
斉藤さんの親戚には自衛官がいて、稚内市内に当時から自衛隊があったのはたしかだ。が、この人物に関する証言には首を傾げてしまう部分もある。
「この教官は身長170Cmほどでした」
が、由美子さんに確認すると、失踪当時の裕さんは160Cmと小柄だった。顔は似ていても、別の人物だった可能性もある。
いずれにしてもこの教官が日本人であることは疑いのない事実だ。
「小泉首相が訪朝するまでは裕の失踪を拉致と関連づけて考えたこともありませんでした。もし、裕が北朝鮮で生きているとしたら、これほどありがたいことはありません」 (由美子さん)
電脳補完禄より
これは メッセージ 93501 (sa_bo_ten_02 さん)への返信です.