日韓合邦の歴史。。TBSは知らんのか!
投稿者: netuzouhanntai 投稿日時: 2003/11/02 20:57 投稿番号: [91422 / 232612]
1904年2月、日本軍が旅順港を攻撃することによって日露戦争が始まった。韓国政府は日露開戦を目前にして、局外中立を宣言したが、すでに漢城(ソウル)を制圧していたロシアはこれを無視し、関係各国も承認しなかった。日本が緒戦に勝利するや、韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これにより日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約を締結して、韓国政府に日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めさせ、いわゆる顧問政治の道を開いて内政改革を推し進めた。戦争中反日義兵はさまざまな妨害活動を行ったが、韓国内には日本軍に積極的に協力する勢力もあり、公称百万人の会員を擁する一進会が鉄道建設・軍需物資の運搬に協力した(⇒資料6)。日露戦争は1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦で勝利すると、5月には日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、9月にポーツマス条約を締結して日本の勝利に終わった。条約によってロシアは、日本の韓国に対する「指導保護及監理」の権利を認めた。その2ヵ月前に日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。これによって、日本の韓国に対する絶対的な優位が確立された。
11月、日本は伊藤博文前首相を特派大使としてソウルへ派遣し、第二次日韓協約(日韓保護条約・乙巳保護条約)を結んだ。日本が韓国の外交権を握ることと、韓国に統監府を置くことを定め、事実上の保護国とした。統監府は翌1996年2月に開設され、伊藤博文が初代の統監となった。この時点では日本政府は韓国を併合しようという合邦積極派と、韓国を保護国として半独立国のまま置こうという合邦消極派に分かれていた。合邦消極論者にとっては、当時韓国が破産状態で、欧米諸国に対して巨額の対外債務を負っていたのを、肩代わりするのを嫌ったのが理由となっていた。しかし高宗が日韓保護条約を無視して、アメリカ大統領やハーグの万国平和会議(1907年6月)(⇒資料7)へ密使を送って排日工作を続けたことと、反日ゲリラである義兵闘争が全国に広まって治安が悪化していったことが、韓国直接統治に踏み切らせる大きな理由となっていく。義兵の指導者は、追放された旧政府高官と封建的特権を剥奪された両班、西洋文明や日本に反感をいだく儒者たちで、衛正斥邪論に基づいて、日本勢力の駆逐と開化派政権の打倒を唱える韓国の近代化に背を向けた復古主義者たちだった。7月ハーグ密使事件の責任をとって高宗皇帝は譲位し、自国の改革をなおざりにして権謀術数を弄することに終始した最高責任者は政治の舞台から退場した。また第三次日韓協約が締結され、日本が司法権・官吏任免権を掌握して統監権限が強化された。
これは メッセージ 91421 (sa_bo_ten_02 さん)への返信です.
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