啓蒙活動:日本の善政
投稿者: netuzouhanntaii 投稿日時: 2003/09/18 23:34 投稿番号: [87313 / 232612]
ジョージアさんが、出てきたので退出が出来なくなってしまった。
日本統治で近代医療衛生制度が確立される。
「醜い韓国人 朴泰赫」 1993年 光文社
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕(ビョンマク)の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。
日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。
私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。
それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。
しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学5年生になったときまであった。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。
各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。
朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。
日本統治で近代医療衛生制度が確立される。
「醜い韓国人 朴泰赫」 1993年 光文社
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕(ビョンマク)の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。
日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。
私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。
それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。
しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学5年生になったときまであった。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。
各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。
朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.