日本の台湾統治5
投稿者: usotuken21 投稿日時: 2003/09/05 23:39 投稿番号: [85315 / 232612]
は じ め に
日本の植民地統治時期の台湾の教育、学術は、植民政策の貫徹に主眼が置かれた。教育は特に初等教育と職業教育に偏重され、学術は熱帯医学と地域研究に重点が置かれた。 この時期、人口は激増し、社会は変遷し、風俗習慣も大きく変化した。たとえば、纏足から開放され、断髪が普及し、時間厳守、法律遵守、近代的衛生観などが確立された。一九二〇年代から、新知識人が十余年にわたり社会運動を展開し、民衆の知恵を啓発し、政治改革と農民、商工業者の待遇改善を要求した。
第一節 教育と学術の発展
公学校を主とした教育施設
日本の植民統治時期、総督府は植民地政策貫徹の道具として、西洋の新しい教育制度を確立し、差別待遇と分離政策を原則に、初等教育学校を主な施設(注①)として、日本語を最重要視した六年間の教育をおこなった。公学校の数は不断に増加し、一九四〇年には学齢児童の入学率は六〇%近くに上った。一九四三年に正式に義務教育が実施され、四五年には入学率が八〇%に達した。
日本の植民地統治の初期に、総督府は日本語普及政策を確立し、学校教育を通して浸透を図ったほか、社会教育を通して日本語普及運動を展開した。一九三〇年代からは、日本語講習所が普及し、未就学者に対して簡単な日本語教育が施された。当時の官報統計によると、日本植民統治末期、日本語を理解できた民衆は七五%を超えていた。
しかし、台湾人にとっての日本語は生活言語とまでは言えず、単に台湾が「二カ国語を話す」社会になっただけであった。台湾人は一貫して、日本語を外国語と見なし、日本語を身につけたからといって同化したわけではなかった。だが、日本語は台湾人が現代知識を吸収するための主要道具となり、台湾社会の現代化を促進することになった。
実用重視の中等以上の教育
中等教育に関して、総督府は当初、教育期間を半年から二年間とした職業訓練所を設立し、初級技術者の育成を図った。一九一九年以降、各地に相次いで一般中学が設立されたが、総督府は技術労働者に対する需要に応えるため、引き続き職業教育を偏重し、基礎技術者を再び日本国内に依存しなくて済むよう、さらに二年教育の職業予備校を大量に増設した。 総督府の植民統治の下、初期の頃は台湾人子弟が人文学科を学ぶことを奨励せず、教師を育成する師範学校と医師を育成する医学校に重点を置いた。教師と医師の社会地位は比較的高く、長期にわたり熾烈な入学競争が展開された。
高等教育は、医学校のほかにも一九一九年以降、農林、工業、商業の専門学校と、台北帝国大学(現在の国立台湾大学)が設立されたが、台湾人の学生の割合は非常に低かった。台湾人の進学は難しく、台湾人で志のある者は、こぞって日本へ留学した。一九四五年までに日本に留学した学生は二十万人にのぼり、そのうち大学や専門学校の卒業生は六万人以上で、医学専攻者が最も多く、次いで法律、商業、経済専攻と続いた。留学は台湾の高等教育の不足を補うものとなった。
植民地政策に合わせた学術研究
台湾を完全に掌握し、有効に統治と開発をおこなうため、日本植民統治の初期、総督府は多くの学者や専門家を招聘し、台湾の自然環境と社会について、科学調査研究をおこなった。その後、総督府は旧慣調査会や研究所などの専門機関を設立し、台湾の伝統制度、風俗習慣、医学衛生、産業などの調査をおこなった。一九二〇年代から、高等教育施設は日増しに完備され、学術研究の中心となっていった。
この時期、台湾の学術研究は植民政策に合わせて発展し、近代台湾の人文、自然、応用科学研究の基礎が確立された。たとえば、医学ではペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの熱帯伝染病原菌が究明されただけでなく、それらに有効な予防・治療もおこなわれ、台湾はアジア熱帯医学研究の中心に数えられるようになった。また、地域研究では、台湾から華南、南洋へと研究範囲が拡大され、台湾が日本の華南、南洋研究の中心となった。
【注釈】
①公学校:台湾総督府は差別待遇、分離政策の原則に基づき、台湾の教育制度を確立し、初等教育は台湾在住の日本人、台湾人、原住民に対して、それぞれ小学校、公学校、蕃人公学校(または蕃童教育所)などを設置したが、各々の教育年数、カリキュラム、教科書などはすべて異なっていた。
日本の植民地統治時期の台湾の教育、学術は、植民政策の貫徹に主眼が置かれた。教育は特に初等教育と職業教育に偏重され、学術は熱帯医学と地域研究に重点が置かれた。 この時期、人口は激増し、社会は変遷し、風俗習慣も大きく変化した。たとえば、纏足から開放され、断髪が普及し、時間厳守、法律遵守、近代的衛生観などが確立された。一九二〇年代から、新知識人が十余年にわたり社会運動を展開し、民衆の知恵を啓発し、政治改革と農民、商工業者の待遇改善を要求した。
第一節 教育と学術の発展
公学校を主とした教育施設
日本の植民統治時期、総督府は植民地政策貫徹の道具として、西洋の新しい教育制度を確立し、差別待遇と分離政策を原則に、初等教育学校を主な施設(注①)として、日本語を最重要視した六年間の教育をおこなった。公学校の数は不断に増加し、一九四〇年には学齢児童の入学率は六〇%近くに上った。一九四三年に正式に義務教育が実施され、四五年には入学率が八〇%に達した。
日本の植民地統治の初期に、総督府は日本語普及政策を確立し、学校教育を通して浸透を図ったほか、社会教育を通して日本語普及運動を展開した。一九三〇年代からは、日本語講習所が普及し、未就学者に対して簡単な日本語教育が施された。当時の官報統計によると、日本植民統治末期、日本語を理解できた民衆は七五%を超えていた。
しかし、台湾人にとっての日本語は生活言語とまでは言えず、単に台湾が「二カ国語を話す」社会になっただけであった。台湾人は一貫して、日本語を外国語と見なし、日本語を身につけたからといって同化したわけではなかった。だが、日本語は台湾人が現代知識を吸収するための主要道具となり、台湾社会の現代化を促進することになった。
実用重視の中等以上の教育
中等教育に関して、総督府は当初、教育期間を半年から二年間とした職業訓練所を設立し、初級技術者の育成を図った。一九一九年以降、各地に相次いで一般中学が設立されたが、総督府は技術労働者に対する需要に応えるため、引き続き職業教育を偏重し、基礎技術者を再び日本国内に依存しなくて済むよう、さらに二年教育の職業予備校を大量に増設した。 総督府の植民統治の下、初期の頃は台湾人子弟が人文学科を学ぶことを奨励せず、教師を育成する師範学校と医師を育成する医学校に重点を置いた。教師と医師の社会地位は比較的高く、長期にわたり熾烈な入学競争が展開された。
高等教育は、医学校のほかにも一九一九年以降、農林、工業、商業の専門学校と、台北帝国大学(現在の国立台湾大学)が設立されたが、台湾人の学生の割合は非常に低かった。台湾人の進学は難しく、台湾人で志のある者は、こぞって日本へ留学した。一九四五年までに日本に留学した学生は二十万人にのぼり、そのうち大学や専門学校の卒業生は六万人以上で、医学専攻者が最も多く、次いで法律、商業、経済専攻と続いた。留学は台湾の高等教育の不足を補うものとなった。
植民地政策に合わせた学術研究
台湾を完全に掌握し、有効に統治と開発をおこなうため、日本植民統治の初期、総督府は多くの学者や専門家を招聘し、台湾の自然環境と社会について、科学調査研究をおこなった。その後、総督府は旧慣調査会や研究所などの専門機関を設立し、台湾の伝統制度、風俗習慣、医学衛生、産業などの調査をおこなった。一九二〇年代から、高等教育施設は日増しに完備され、学術研究の中心となっていった。
この時期、台湾の学術研究は植民政策に合わせて発展し、近代台湾の人文、自然、応用科学研究の基礎が確立された。たとえば、医学ではペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの熱帯伝染病原菌が究明されただけでなく、それらに有効な予防・治療もおこなわれ、台湾はアジア熱帯医学研究の中心に数えられるようになった。また、地域研究では、台湾から華南、南洋へと研究範囲が拡大され、台湾が日本の華南、南洋研究の中心となった。
【注釈】
①公学校:台湾総督府は差別待遇、分離政策の原則に基づき、台湾の教育制度を確立し、初等教育は台湾在住の日本人、台湾人、原住民に対して、それぞれ小学校、公学校、蕃人公学校(または蕃童教育所)などを設置したが、各々の教育年数、カリキュラム、教科書などはすべて異なっていた。
これは メッセージ 85308 (den00_goro さん)への返信です.