あんた日本人??違和感感じる
投稿者: ahoahoahochak7 投稿日時: 2003/08/21 22:43 投稿番号: [83151 / 232612]
鎌倉武士を馬鹿にしましたね。
事実はこうですよ。
蒙古は高麗型の艦船(大小)九百隻に蒙古軍二万、高麗軍六千弱、女真人や漢人などの混成部隊を載せて侵攻した。その目的は威嚇と偵察である。無用な戦で敗北を喫してはならない(用兵の機微は不敗神話の確立にある)。しかし戦場は酸鼻を極め、毒矢・短弓・鉄砲(炸裂弾)を用ひる集団戦法が、鎧武者の一騎駈けを蹂躪した。戦争は文化行為の一種でもある。
しかし深追ひは禁物である。必死の兵は数倍の戦力に匹敵する。しかも馴れぬ敵地での勝算ほど当てにならぬものはない。優勢な蒙古軍が撤退した理由について、朝鮮の東国通鑑に拠る暴風雨説(大日本史)が一般化してゐるが、それだけではあるまい。高麗史に拠れば、洋上への撤退は蒙古軍指揮官の判断に因るものであった。
そもそも騎馬民族は確実な勝算がなければ戦ふ必要がなく(彼らは元々が定住民ではない)、逃げることは単に戦法の一種なのである。高麗に帰還した蒙古軍は、戦死と暴風雨による死者を除いた、約3分の2と記録されてゐる。タタール人の「末裔」であるロシア軍が、ナポレオン戦争や日露戦争、対独戦で同様の戦法を用ひたことは記憶に新しい(不思議に対日戦争では「敗因」に繋がるのだが)。
翌年、蒙古は日本国に宣諭使を遣はし、同時に本格侵攻を準備した。そのうち南宋も滅亡、日本は東亜細亜における唯一の敵対勢力となった。今回の兵力は前回の5倍を凌ぎ(これは前回の結果を五分程度に見たことを意味する)、艦船四千数百、兵員十四万といふ本格的な遠征軍であって、農機具や調度品まで積載してゐた。その上、今回は日本を服属せしめることが目的であるから、遠征軍による無用の殺傷と諸将のイザコザまで禁じられた(実際は対馬・壱岐で前回以上の殺戮=ジェノサイドが行はれてゐる)。
しかし対する鎌倉幕府も準備に怠りはない。幕府は宣諭使を斬首し、攘夷の意思を天下に公布した。幕府への権限集中は進み、文永の役の翌年にはモンゴル遠征の計画まで練られてゐる。一見無謀なやうだが、防御側は上陸可能地点に散開せざるを得ず、対する攻撃側は防御の薄い地点へ集中する。国土防衛を担ふ幕府としては当然の対応であった。
同時に沿岸防備の石築地が造営され、山陰から山陽・北陸まで警戒区域に加へられた。ここに至り、外圧は鎌倉政権の基盤を執権政治から武家政権へと変質させ、公武の役割分担を明確にしたと云へる。 7世紀と云ひ、この世紀と云ひ、19世紀と云ひ、「軟弱」な時代が「種」を宿し、その種が外圧を迎へて結実・開花するといふのは、我が国が無意識に選択する「歴史的戦略」であるかも知れない。
蒙古軍は二派に分れてゐたが、そのうちの東路軍(前回とほぼ同じ勢力)は遅れた江南軍(兵十万)を待たず、博多湾に侵攻した。迎へ撃つ倭軍は上陸を許さず、海上に追撃して壱岐まで逃避させた。やがて合流した蒙古軍は「神風」に遭難、退避するところを倭軍に追撃され、4分の3の兵力を失ふに至る。
その後、幕府は蒙古遠征軍を編成し、その一部が高麗まで進出してゐる。一見無謀なやうだが、国力の圧倒的に劣る倭軍としては贅沢な戦は出来ない道理である。これを受けたフビライは倭の反攻を虞れ、斉州島・合浦・杭州湾から江南まで守備を固めた。が、これに懲りることはなく、日本遠征計画はフビライの死まで続く。小国日本が人口の数十倍する世界帝国に抗ひ続けることは不可能であるといふ計算に基く。
だがフビライの勝算も、民族を統合した大帝国の余命を見過ごしてゐた。元が滅びるのは、これから僅か数十年ほど後のことである。尤も、いくさを追ふやうにして亡くなった時宗が、生前にこれを予期してゐたかどうかは定かでない。いづれにせよ、「元寇」(この語は江戸末期の「国難」に際して生れた)は、現代の脚本に描かれるやうなナマヤサしいものでないことだけは確かだ。
事実はこうですよ。
蒙古は高麗型の艦船(大小)九百隻に蒙古軍二万、高麗軍六千弱、女真人や漢人などの混成部隊を載せて侵攻した。その目的は威嚇と偵察である。無用な戦で敗北を喫してはならない(用兵の機微は不敗神話の確立にある)。しかし戦場は酸鼻を極め、毒矢・短弓・鉄砲(炸裂弾)を用ひる集団戦法が、鎧武者の一騎駈けを蹂躪した。戦争は文化行為の一種でもある。
しかし深追ひは禁物である。必死の兵は数倍の戦力に匹敵する。しかも馴れぬ敵地での勝算ほど当てにならぬものはない。優勢な蒙古軍が撤退した理由について、朝鮮の東国通鑑に拠る暴風雨説(大日本史)が一般化してゐるが、それだけではあるまい。高麗史に拠れば、洋上への撤退は蒙古軍指揮官の判断に因るものであった。
そもそも騎馬民族は確実な勝算がなければ戦ふ必要がなく(彼らは元々が定住民ではない)、逃げることは単に戦法の一種なのである。高麗に帰還した蒙古軍は、戦死と暴風雨による死者を除いた、約3分の2と記録されてゐる。タタール人の「末裔」であるロシア軍が、ナポレオン戦争や日露戦争、対独戦で同様の戦法を用ひたことは記憶に新しい(不思議に対日戦争では「敗因」に繋がるのだが)。
翌年、蒙古は日本国に宣諭使を遣はし、同時に本格侵攻を準備した。そのうち南宋も滅亡、日本は東亜細亜における唯一の敵対勢力となった。今回の兵力は前回の5倍を凌ぎ(これは前回の結果を五分程度に見たことを意味する)、艦船四千数百、兵員十四万といふ本格的な遠征軍であって、農機具や調度品まで積載してゐた。その上、今回は日本を服属せしめることが目的であるから、遠征軍による無用の殺傷と諸将のイザコザまで禁じられた(実際は対馬・壱岐で前回以上の殺戮=ジェノサイドが行はれてゐる)。
しかし対する鎌倉幕府も準備に怠りはない。幕府は宣諭使を斬首し、攘夷の意思を天下に公布した。幕府への権限集中は進み、文永の役の翌年にはモンゴル遠征の計画まで練られてゐる。一見無謀なやうだが、防御側は上陸可能地点に散開せざるを得ず、対する攻撃側は防御の薄い地点へ集中する。国土防衛を担ふ幕府としては当然の対応であった。
同時に沿岸防備の石築地が造営され、山陰から山陽・北陸まで警戒区域に加へられた。ここに至り、外圧は鎌倉政権の基盤を執権政治から武家政権へと変質させ、公武の役割分担を明確にしたと云へる。 7世紀と云ひ、この世紀と云ひ、19世紀と云ひ、「軟弱」な時代が「種」を宿し、その種が外圧を迎へて結実・開花するといふのは、我が国が無意識に選択する「歴史的戦略」であるかも知れない。
蒙古軍は二派に分れてゐたが、そのうちの東路軍(前回とほぼ同じ勢力)は遅れた江南軍(兵十万)を待たず、博多湾に侵攻した。迎へ撃つ倭軍は上陸を許さず、海上に追撃して壱岐まで逃避させた。やがて合流した蒙古軍は「神風」に遭難、退避するところを倭軍に追撃され、4分の3の兵力を失ふに至る。
その後、幕府は蒙古遠征軍を編成し、その一部が高麗まで進出してゐる。一見無謀なやうだが、国力の圧倒的に劣る倭軍としては贅沢な戦は出来ない道理である。これを受けたフビライは倭の反攻を虞れ、斉州島・合浦・杭州湾から江南まで守備を固めた。が、これに懲りることはなく、日本遠征計画はフビライの死まで続く。小国日本が人口の数十倍する世界帝国に抗ひ続けることは不可能であるといふ計算に基く。
だがフビライの勝算も、民族を統合した大帝国の余命を見過ごしてゐた。元が滅びるのは、これから僅か数十年ほど後のことである。尤も、いくさを追ふやうにして亡くなった時宗が、生前にこれを予期してゐたかどうかは定かでない。いづれにせよ、「元寇」(この語は江戸末期の「国難」に際して生れた)は、現代の脚本に描かれるやうなナマヤサしいものでないことだけは確かだ。
これは メッセージ 83147 (kurakurashichau さん)への返信です.