陸軍中野学校
投稿者: inakamonodemisawa 投稿日時: 2003/07/23 00:00 投稿番号: [79498 / 232612]
日本的レジスタンスの芽生え
もともと陸軍中野学校は時代の要請、戦争の多様化から、歴史的には「後方勤務要員養成所」という名称のもとに組織化された。昭和12年ごろから具体化し、昭和13(1938)年2月発足した。
後方とは正規の歩兵部隊を中心とした白兵戦と異なり、後方にあって諜報、宣伝、謀略、防諜の秘術を尽くして戦う形態をいうもので、その要員養成も、初期は「秘密戦」向きのスパイ戦士の養成から、ゲリラ戦要員の養成へと重点を移していった。
昭和12〜13年となると一般住民の支持を受けて、小部隊による待ち伏せ、奇襲、夜襲など変則的な戦闘形式が主眼とされた。
その後、欧州戦線において、ナチス・ドイツの占領下にあったフランス国民が対独抵抗運動を拡大して、1944年8月にはパリを解放、民衆によるゲリラ作戦の勝利を収めた。いわゆるレジスタンスresistanceである。侵略軍に対する民衆と、一部軍隊による強化された抵抗運動である。
これをわが国でも米軍の日本本土上陸作戦の展開前に整備しようとする構想を打ち出し、中野学校では本校と別に、静岡県二俣町(磐田郡)に分校をつくった。天竜川が二俣にわかれるところ、河原が広く、爆薬演習にはもってこいの地形であった。
開所式は昭和19年9月1日、見習士官228名が第1期生として入校。ゲリラ戦幹部として3か月の短期教育を受けた。任地はフィリピン、インドネシア、仏印、台湾、沖縄その他各軍司令部であったが、私たちの第2期生は募集方法を変えて、昭和20年1月入校式を行った。
もう終戦の年である。200名から成る若い見習士官。それも判断力と柔軟性を持った人材といえば、そう簡単に集めることはできない。そこで満州、北支を含めた全国の予備士官学校のうち、野戦環境の中にある石門(河北省石家荘)の教育隊にマトをしぼった。8個中隊の中隊長と区隊長が予備選抜を行い、候補者をしぼった。そこへ中野学校本部の高級副官坂口裕中佐一行が石門へやってきて採用者を即決した。
こうして、石門出身170名、騎兵学校出身30名、計200名が選ばれた。任地は支那派遣軍総司令部28名、台湾25名に集中的に配備され、あと関東軍4、朝鮮軍19、大本営7、その他内地の各軍司令部138名という配属となった。
すでに正規軍よりゲリラ軍が主体となる要員養成方針が打ち出され、私たちも南京から漢口へ派遣され、現地部隊の司令部も「ゲリラ隊の中野出身者」として受け入れ体制を整備していった。
要するに日本陸軍は鉄帽と38式歩兵銃で表徴された時代から、レジスタンスまがいの抵抗運動に大きく転回していったのである。
これは メッセージ 79496 (inakamonodemisawa さん)への返信です.
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