朝鮮の尊皇攘夷
投稿者: sofiansky2003 投稿日時: 2003/05/22 07:46 投稿番号: [70417 / 232612]
女真族は、現在の中国東北に蟠踞し、ある時期の漢民族及び朝鮮族にとって夷の代表だった。
(この女真族が明を滅ぼし清という国を作る。)
(以下、司馬遼太郎の「この国のかたち」−「尊皇攘夷」の後半1/3から−著作権を気にしつつ引用します)
女真は力をもって朝鮮に服従を強い、明と絶つことを求めた。
朝鮮は苦しかった。服従しつつ、明を恋いつづけた。
朝鮮官僚団は内々で悲憤し、密かに尊皇攘夷をとなえつづけた。
ついでながらこの場合の王とはこの地上に一人の存在である明の皇帝をさす。
このあたり、当時の朝鮮官僚団の思弁性はまことにややこしい。
自分たちの主である朝鮮国王に「尊皇」させることが、朱子学イデオロギー上での正義だったのである。
朱子学においては「尊皇」と「攘夷」は直結している。
である以上、朝鮮知識人としては北方のオランケ(女真のこと)という夷に対し攘夷せねばならない。しかし現実にはオランケの爪牙に国ぐるみつかまれて、身動きができなかった。
清の世になると、朝鮮は清に対して前代の明朝と同様、これを「天朝」ととなえ、清国皇帝に手厚く事えた。
内々においては清朝をもって夷荻とののしり、また女真風に弁髪させられている中国人民ついてはこれを「犬羊」であるとした。
このような腸捻転にも似た思想的閉塞は朱子学という思弁哲学の惨禍であったともいえる。
この点日本史は単純だった。
江戸期、朱子学は官学だったが、夷というものが国内におらず、近隣にもいなかった。
幕末、ぺりー・ショック以来、にわかに尊皇攘夷ということばが流行語になり、その大合唱が倒幕運動に転化し、明治政権ができた。
もっとも攘夷政権であるべき明治政府は樹立早々に攘夷をやめ、開国にきりかえてしまった。
「なんという国だ」
と朝鮮は、当時対馬藩主の名で送られてきた通告文に「皇」という文字が頻出するのにあきれたらしく、日本の新政権をはなはだよろこばなかった。
朝鮮にとって尊皇の王は(思弁的な屈折はありつつも)清国皇帝のみをさすのである。
日本の場合は、当時の朝鮮の感覚からみれば物知らずにも自国の天皇をさしている。
日本に礼教という秩序感覚がないのか、というが明治政権成立早々の朝鮮側の不快と不安だった。
不安とは、礼教がないぶんだけ野蛮だということである。
野蛮とはルールがないことをさし、何をしでかすかわからない、ということなのである。
これに対し、明治初年の日本は、朝鮮が頑迷で、“自尊自大、百世の古籍を敲き、宇宙の時体を解せず“とした。
尊皇攘夷一つとっても、歴史的な日本と韓国とはよほどへだたった国だといわねばならない。
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日本に最も近い国とはいえ、これほどに考え方に差があった。
中国以上に儒教的物差しがもっと強い国が当時の朝鮮国(イデオロギーに執着する)、もともと儒教的意識が弱く変わり身の早かった日本(イデオロギーに執着しない)の差が、近代史の展開の決定的に異なるものした一大要素なのだろう。
「朝鮮側の(日本に対する)不快と不安」は現在も形を変え、北朝鮮は当然として韓国にも色濃く生き続けているようである。
世界中隣国との関係というのは歴史経過があるだけにどこでも仲が悪いのか、それとも朝鮮半島が特別なのか?おそらく双方の要素があるのでしょう。
(この女真族が明を滅ぼし清という国を作る。)
(以下、司馬遼太郎の「この国のかたち」−「尊皇攘夷」の後半1/3から−著作権を気にしつつ引用します)
女真は力をもって朝鮮に服従を強い、明と絶つことを求めた。
朝鮮は苦しかった。服従しつつ、明を恋いつづけた。
朝鮮官僚団は内々で悲憤し、密かに尊皇攘夷をとなえつづけた。
ついでながらこの場合の王とはこの地上に一人の存在である明の皇帝をさす。
このあたり、当時の朝鮮官僚団の思弁性はまことにややこしい。
自分たちの主である朝鮮国王に「尊皇」させることが、朱子学イデオロギー上での正義だったのである。
朱子学においては「尊皇」と「攘夷」は直結している。
である以上、朝鮮知識人としては北方のオランケ(女真のこと)という夷に対し攘夷せねばならない。しかし現実にはオランケの爪牙に国ぐるみつかまれて、身動きができなかった。
清の世になると、朝鮮は清に対して前代の明朝と同様、これを「天朝」ととなえ、清国皇帝に手厚く事えた。
内々においては清朝をもって夷荻とののしり、また女真風に弁髪させられている中国人民ついてはこれを「犬羊」であるとした。
このような腸捻転にも似た思想的閉塞は朱子学という思弁哲学の惨禍であったともいえる。
この点日本史は単純だった。
江戸期、朱子学は官学だったが、夷というものが国内におらず、近隣にもいなかった。
幕末、ぺりー・ショック以来、にわかに尊皇攘夷ということばが流行語になり、その大合唱が倒幕運動に転化し、明治政権ができた。
もっとも攘夷政権であるべき明治政府は樹立早々に攘夷をやめ、開国にきりかえてしまった。
「なんという国だ」
と朝鮮は、当時対馬藩主の名で送られてきた通告文に「皇」という文字が頻出するのにあきれたらしく、日本の新政権をはなはだよろこばなかった。
朝鮮にとって尊皇の王は(思弁的な屈折はありつつも)清国皇帝のみをさすのである。
日本の場合は、当時の朝鮮の感覚からみれば物知らずにも自国の天皇をさしている。
日本に礼教という秩序感覚がないのか、というが明治政権成立早々の朝鮮側の不快と不安だった。
不安とは、礼教がないぶんだけ野蛮だということである。
野蛮とはルールがないことをさし、何をしでかすかわからない、ということなのである。
これに対し、明治初年の日本は、朝鮮が頑迷で、“自尊自大、百世の古籍を敲き、宇宙の時体を解せず“とした。
尊皇攘夷一つとっても、歴史的な日本と韓国とはよほどへだたった国だといわねばならない。
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日本に最も近い国とはいえ、これほどに考え方に差があった。
中国以上に儒教的物差しがもっと強い国が当時の朝鮮国(イデオロギーに執着する)、もともと儒教的意識が弱く変わり身の早かった日本(イデオロギーに執着しない)の差が、近代史の展開の決定的に異なるものした一大要素なのだろう。
「朝鮮側の(日本に対する)不快と不安」は現在も形を変え、北朝鮮は当然として韓国にも色濃く生き続けているようである。
世界中隣国との関係というのは歴史経過があるだけにどこでも仲が悪いのか、それとも朝鮮半島が特別なのか?おそらく双方の要素があるのでしょう。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.