小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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明治天皇の前の権力があった天皇

投稿者: ahoahoahochann7 投稿日時: 2003/05/15 23:29 投稿番号: [68971 / 232612]
14世紀まで遡る。平安時代の権力者も藤原家。。

後鳥羽上皇(1180〜1239)、第82代天皇
在位1183〜1198年。院政1198〜1221年

平氏が安徳天皇を擁して西国に逃れた後、後白河法皇の意により践祚。九条兼実らの親幕派を退けて、幕府に対抗。承久の乱に敗れて隠岐に流された。歌人としても優れ、「後鳥羽院御集」「遠島百首」等の歌集がある。また1201年和歌所を設け、藤原定家らに「新古今和歌集」を選上させた。有職故実書の「世俗浅深秘抄」・「日中行事」(後醍醐天皇の著ともいわれる)や法律書の「裁判至要抄」など多数の編著書がある。多くの流人達を受け入れてきた隠岐にとって、後醍醐天皇と並んで超大物中の大物であると言えるだろう。

後醍醐天皇は隠岐に配流された後で、政権を奪回し、光厳天皇の在位を歴史から消し去り、年号を元の元弘に戻したことから、崩御されるまで退位せずに現役だったために上皇という名は一般的では無いが、後鳥羽上皇は承久の乱に敗れたことで退位し、上皇となっている。後鳥羽天皇、後鳥羽上皇、後鳥羽院と言う呼び名があるが、後鳥羽院は後鳥羽上皇が行った院政自体とその時代相を指す場合が多いために、後鳥羽上皇個人を指す言葉としてはここでは「上皇」を使用する。

後鳥羽上皇を語るについて、後醍醐天皇のように詳細な資料が残っていないのが残念だが、上皇を語る上で忘れてなはならい事柄を次にあげてみた。

1180年(治承四年)7月14日(一説には15日)   高倉天皇の第四皇子として誕生。
母は藤原信隆の娘七条院殖子。寿永2年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、皇位が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。

承久の乱とは一体どういったものだったのか。鎌倉幕府以前の日本は貴族達の国であった。貴族達は壮大なる荘園を所持し、その荘園の番人として武士という位を作り、荘園の周りに配備した。荘園を守るべく小さな小競り合いを繰り返しながら、武士達は次第に凶暴化して行くのである。そして本来はバラバラであった武士達が集まり、武士団が結成されて行く。そうして知らず知らずのうちに貴族と武士団の力が拮抗しだし、華やかな生活を送る貴族達に対し武士団が闘志を燃やすようになる。
そして900年代にはいると、平将門のようなカリスマ性を持った武将が誕生し、内紛を起こし始め、それが乱となり国府を襲い始め、平将門はとうとう関東において独立国家宣言をし自らを「新皇」と呼ぶようになった。
これらの反乱は、中央の貴族に衝撃を与えるとともに、地方の武士の反乱に対して中央の権力が無力であることを明らかにした。

その後いくつもの乱を繰り返し、約250年後、壇ノ浦の合戦を境に、平将門が夢見た、武家政権が実権を握る「幕府」が、皮肉にも平家を滅ぼした源氏の手によって確立される。「鎌倉幕府」の誕生である。
その時の、日本の政権争いを担っていた天皇こそ、後鳥羽上皇その人であった。
そして1219年、3代続いた源氏将軍も後が居なくなりその後継ぎを探し始めた。もともと源氏が将軍になれたのは清和天皇と血縁関係が有ったためで、その血筋を生かすために、幕府は後鳥羽上皇の皇子を迎え入れようと画策するがあえなく反対されてしまう。
それはなぜか?当時後鳥羽上皇は、朝廷の権力を回復しようとして荘園を院に集中させ、北面の武士に加えて西面の武士を置いて軍事力の強化をはかり、朝廷から幕府よりの九条兼実などの公家を排除していたからである。

そして政権は源氏から北条氏へと移り、北条氏の独裁政治が幕をあける。
源氏将軍というカリスマを失い、北条将軍の独裁化を苦々しく思う幕僚たちが後に続くと踏んだ後鳥羽上皇は、1221年、ついに「北条義時を追討せよ」という院宣を発する。かくして承久の乱は勃発する。

しかし、源頼朝の妻、政子が武士たちを集めある演説をする。
「幕府以前、貴族朝廷の時代は武士たちは悲惨な生活を強いられていた」と涙ながらに訴えたのである。もしもここで朝廷派が勝つようなことになれば、またもとの悲惨な生活が待っていると悟った武士たちは、北条氏を裏切ることなく朝廷軍と戦ったのである。この演説によって幕府軍が勝利したとも言われている裏には、やはり北条独裁に対し不満を持ち朝廷側に付こうとしていたものが多かったと思われる。

結果、朝廷側は敗退し、幕府は後鳥羽天皇を廃位、同じく朝廷派の中心人物であった土御門上皇、順徳上皇をそれぞれ廃位する。
そしてその三上皇はそれぞれ、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へと配流される。

この後幕府は、朝廷を監視するために京都に六波羅探題を置いて、天皇の継承にまで口を出すことになる。この状態は後に隠岐に配流されることになる後醍醐天皇が1333年に六波羅探題を攻
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