警察襲撃
投稿者: ahoahoahochan5 投稿日時: 2003/02/03 23:54 投稿番号: [47329 / 232612]
富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。
この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。
「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社
(灰色文字は管理人注)
(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)
戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。
三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。
この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。
「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社
(灰色文字は管理人注)
(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)
戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。
三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.