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警察を無視する厚顔無恥

投稿者: ahoahoahochan5 投稿日時: 2003/02/03 23:19 投稿番号: [47318 / 232612]
警察権を無視した三国人

「白い手黄色い手」   1956年   毎日新聞社   (「韓国のイメージ」鄭大均   より) 「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。
彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。

「大阪・焼跡闇市」   昭和50年   大阪・焼跡闇市を記録する会編   夏の書房
(戦後の大阪で)実力制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、人の私有地であってもその管理人や地主の承認なしに家を建てていった。そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、実力沙汰で暴行脅迫したのである。また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけにこの闇商人の中に、当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。

元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』(「そねざき」曽根崎防犯協会   昭和41年)
(中略)
このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。
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