三国人の不法行為 (豹変する??)
投稿者: ahoahoahochan5 投稿日時: 2003/02/03 22:20 投稿番号: [47296 / 232612]
豹変する彼は信用できない。。。
「興安丸 33年の航跡」 森下研 昭和62年 新潮社
(灰色文字は管理人補足)
(終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた)しかし金さえあれば食料は、上原(駅員)のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。
(朝鮮へ引き揚げる船に乗るために)敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。これが、興安丸(引揚船)がきたころの博多港界隈の状況だった。
韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、
『おまえ、おれの財産を盗む気か』
などと血相を変えてくってかかる。それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP(進駐軍憲兵)が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。操舵手の中野正助は戦前の関釜(下関―釜山間の連絡船会社)に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。
『船員さん、あの自転車を揚げてくれ!』男は、半狂乱になって叫ぶ。
『とても無理だ』
中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。
(日本引き揚げに際し、GHQにより一人当りの持ち帰り金額が千円までに制限されていた。朝鮮引き揚げの日本人も同様で、莫大な資産が朝鮮のものになった。)
「興安丸 33年の航跡」 森下研 昭和62年 新潮社
(灰色文字は管理人補足)
(終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた)しかし金さえあれば食料は、上原(駅員)のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。
(朝鮮へ引き揚げる船に乗るために)敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。これが、興安丸(引揚船)がきたころの博多港界隈の状況だった。
韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、
『おまえ、おれの財産を盗む気か』
などと血相を変えてくってかかる。それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP(進駐軍憲兵)が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。操舵手の中野正助は戦前の関釜(下関―釜山間の連絡船会社)に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。
『船員さん、あの自転車を揚げてくれ!』男は、半狂乱になって叫ぶ。
『とても無理だ』
中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。
(日本引き揚げに際し、GHQにより一人当りの持ち帰り金額が千円までに制限されていた。朝鮮引き揚げの日本人も同様で、莫大な資産が朝鮮のものになった。)
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.