自分に甘く他人には辛く当たる朝鮮人
投稿者: ahoahoahocha4 投稿日時: 2003/02/02 22:46 投稿番号: [47055 / 232612]
飢餓と疫病
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち。
「朝鮮」
金達寿
1958
岩波新書
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者(秀吉軍・モンゴル軍)との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5〜60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
「歪められた朝鮮総督府」
黄文雄
1998
光文社
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、 「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを 放置しておく道を選んだ。」(朝鮮事情・平凡社東洋文庫)
朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。
李朝時代は現在の北朝鮮のように餓死者のでる国だったのだ。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.
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