文永の役(第1回)
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2003/01/02 15:00 投稿番号: [37331 / 232612]
蒙古軍の撤退
さて、当時の赤坂は台地であった。高所に陣取った武士は、蒙古軍へ矢を撃ち下ろすこととなり、その威力を増すことが出来た。武士達は残兵を励まし、楯を並べて弓矢を射掛け、矢衾を作って戦況を支えた。両軍とも主力武器は弓矢である以上、戦闘のほとんどが「楯突戦」に費やされた。これにより、蒙古軍は矢の不足という事態を招くことになる。
そして日没になると、武士達は「水城に拠って防戦しよう」とささやき合い、さっさと逃げ支度をした。
終日に及ぶ日本軍の防戦、そして副司令官・劉復亨の負傷もあいまって、蒙古軍はこれ以上の侵攻を断念した。ついに博多中心部へ侵入することもなく、蒙古軍は軍船に引きあげたのである。太宰府占領を阻んだという点において、日本側の勝利といえる。但し、元側の見通しの甘さに助けられた部分もある。
本陣にて、軍議が開かれた。高麗軍の将・金方慶は主戦論を唱えた。
「戦況は有利なのだから、一気に敵軍を蹴散らすべきである。九州を乗っ取り、前線基地とすれば、日本征服も可能である。この機を逃せば、日本を討ち取ることは出来ないだろう」
これに対し、蒙古軍の総司令官・忻都は慎重論を唱えた。
「小勢の敵とはいえ、今日の戦を見る限り、日本軍は堅固である。食糧も矢も残り少ないのだから、新手が来ないうちに引きあげるべきである」
忻都は、思ったより戦況が進展しなかったのを見て、太宰府進撃は困難と判断していた。だから、軍を船上に引き上げさせたのである。 「戦闘については蒙古軍が優勢であったとはいえ、今後の戦局推移という観点から見ると蒙古軍の方が不利である」というのが彼の判断であった。 左翼の高麗軍と正面の蒙漢軍が合流することも出来なかったし、兵站を陸揚げすることも出来なかった。これに対し、日本軍の後方基地にして主決戦場になるであろう水城と大野城は無傷である。加えて、増援が続々と集結しつつあった。
衆議は忻都に傾いた。日本から一旦撤退することに決定し、軍議は終わった。そして、問題の二十日夜半を迎えるのである。
これは メッセージ 37325 (cfx789 さん)への返信です.
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