岸信介の恩赦の引用先
投稿者: b185472 投稿日時: 2002/12/31 20:56 投稿番号: [36886 / 232612]
しかし、岸が、戦後の日本の政治を支配することになるピラミッドの頂点に立ったのは、彼が特別な位置付けをされていたためだった。
米占領軍当局は、A級戦犯容疑者の岸を巣鴨で尋間した後、この戦前の超国家主義者が戦後日本における共産主義の急激な拡大を阻止するために、役に立っことに気がついた。
岸が児玉誉士夫、笹川良一とおなじ拘置所に留置されたのは、おそらくそのためであろう。
3人はそれぞれ絞首刑を免れることと引き換えに親米的な特殊任務を担った岸は政界において、児玉は右翼運動と政界のフィクサーとして、笹川は政府公認の競艇の収益から得るカネを世界中にばらまく
「国際的な慈善家」
として。
長州一族のまとまりのよい政治勢力は、まさにACJとその一派がウォール街を中心とする米国東海岸のエリートの伝統的政治勢力と噛み合わせる相手として求めていたものだった。
もちろん彼らこそは、日本をパールハーバー爆撃とそれにつづく太平洋戦争に突入させた同じ面々であった。
ACJの使命とは、1940年代末期に日本で生まれつつあった民主的潮流を逆行させ、日本をアジアにおける反共の砦にすることだった。
彼らがこの無謀ともいえる夢を実現させたことは、生きて巣鴨を出られないと覚悟していた岸さえも驚かせたにちがいない。
巣鴨にいる間、彼は友人の児玉に
「君とか笹川君とか僕なんかは、呼ばれやせんよ
(釈放されることはないだろう)
」
と語ったと伝えられる。
アメリカ対日協議会
(ACJ)
が仕掛けた
「逆コース」
の成功は、極東軍事裁判を、(島内敏郎の言葉を借りるならば)
「最悪の茶番」
に変えてしまった。
岸をはじめとするA級戦犯容疑者は米国当局から起訴さえされず、まして極東軍事裁判にかけられることはなかった。
戦争中、東条英機内閣の商工相をつとめ、また、伯父の松岡とともに満州国を取りしきった5人の指導者のひとりである岸は、釈放されてわずか6年後、日本民主党幹事長に就任した。
その翌年、民主党は自由党と合併して自由民主党が結成され、それから2年もせぬうちに、わけのわからぬ早業で、岸は自民党の総裁として首相の椅子におさまった。
『軍隊なき占領
(ウォール街が
「戦後」
を演出した)
』
G.デイビス、J.ロバーツ、新潮社1996年、p.112
これは メッセージ 36871 (murudeka45 さん)への返信です.
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