差別する側の無自覚
投稿者: benim_hocam_turk 投稿日時: 2002/12/28 03:31 投稿番号: [35778 / 232612]
京都においては「解同」「総連」「民団」を混同する市民は皆無だろう。
関東に住んだ時、周囲の人間のほとんどがそういった認識に持たないのには驚いた。
蜷川虎三知事の施政下、京都人は7期28年の間、あらゆる「差別撤廃運動」に無関心ではいられなかった。
時を遡っても「水平社宣言」が実施されたのは京都である。
蜷川知事は、学者であったが人柄は清廉かつ温厚であったという。
しかしそれだけでなく、京都人がその政権を支持しつづけたのは「差別する醜悪さ」を自覚していたからだ。
その遺産が「野中ヒロム」だとすれば慙愧に耐えない想いだ。
いつから「利権」など発生したのか。
しかし在日・部落出身者の「恨み」が存在しつづける理由もまた、考慮しなければならない。
足を踏んだ者が踏まれた者の痛みを「金欲しさの言いがかり」と突っぱねる姿はまるでユダヤの商人的な散漫さだ。
「謂われない差別など、もはやこの国に存在しない」は未だ幻想でしかない。
「(欧米人ではない)ガイジン」を配偶者にもった自分は、時折「入国管理局」に行くこともあるが、正当なヴィザを所有しながら夫の「再入国許可証」をいただくために、
「逆らってはいけない」と卑屈にならざるを得ないこともある。
当然、無性に腹が立ったり情けない思いをすることもある。
911以来顕著であろうか。
個人的に「アンジョンファン」は嫌い。でも「パクチソン」は好き。
民族でなく、国籍でなく「個人」を重視して欲しいし、そうしたい。
「朝鮮人は死んでもいい」など言うヒトは「日本人は悪い民族だから滅んでいい」と考えるヒトと結局、同調している。
私はこういった発言こそが、それぞれの「民族の恥」と思う。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.
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