この事ですか
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2002/12/14 20:19 投稿番号: [31618 / 232612]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jo
gbd_h13/jog178.html
日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太妃、そして韓国障害児の母へ。
皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。
大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、 わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱い をした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられた。
明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。
垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同 等」という扱いはここにも及んでいた。また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で 血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。
2年後、王 子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家 は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も 一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。 二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた。
昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠 殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひと こと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。
昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられが皇族の身分を奪われ、財産の大半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われてしまった。
昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。
昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。
当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。
方子様と垠殿下の間に生まれた子供は平民になったので、多分日本の皇族とは縁組してないはずなので exh1868さんの
>天皇家は日本人と朝鮮人のミックス
は関係ないと思う。貴方の主張の根拠は何ですか?
>「天皇家のルーツは朝鮮人の血がはいっています」と今の平成天皇が韓国を訪問したときに、言ったというそのソースはどこですか。
今の平成天皇は韓国は訪問してないと思いますが。韓国の大統領が、日本に来た時、宮中晩餐会で、そんな事を言われたと思います。それは、方子様の事を言われたのです。
あっちの人は捏造が好きですね。
gbd_h13/jog178.html
日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太妃、そして韓国障害児の母へ。
皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。
大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、 わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱い をした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられた。
明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。
垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同 等」という扱いはここにも及んでいた。また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で 血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。
2年後、王 子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家 は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も 一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。 二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた。
昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠 殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひと こと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。
昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられが皇族の身分を奪われ、財産の大半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われてしまった。
昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。
昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。
当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。
方子様と垠殿下の間に生まれた子供は平民になったので、多分日本の皇族とは縁組してないはずなので exh1868さんの
>天皇家は日本人と朝鮮人のミックス
は関係ないと思う。貴方の主張の根拠は何ですか?
>「天皇家のルーツは朝鮮人の血がはいっています」と今の平成天皇が韓国を訪問したときに、言ったというそのソースはどこですか。
今の平成天皇は韓国は訪問してないと思いますが。韓国の大統領が、日本に来た時、宮中晩餐会で、そんな事を言われたと思います。それは、方子様の事を言われたのです。
あっちの人は捏造が好きですね。
これは メッセージ 31608 (exh1868 さん)への返信です.