「市民」という仮面
投稿者: cfx789 投稿日時: 2002/12/06 22:33 投稿番号: [29680 / 232612]
日本において「大衆」という言葉が使われたとする。
特殊な場合を除けば、
そこには僅かではあるがある種の侮蔑の意味合いが含まれている。
従って大衆を肯定的に解釈している人々は、
「市民」という言葉を用いるという傾向がある。
そして、日本においての「市民」という言葉にはやはりある種の意味合いが含まれている。
例えば、
「反核平和市民の会」や「環境を守る市民の会」などが、そのよい例である。
ここで表している「市民」という言葉は、大衆を美化しただけでない、
他の意味が含まれている。
それは、ある政治的な意味合いを含んでいるのである。
ここでいう市民は必ずといっていいほど反国家的、反権力的な行動をとる。
何故であろうか。
それはここでの市民像とはフランス革命時の市民を理想としたものだからである。
そしてのちほどみるように、フランス革命とは理想的には崇高なものではあっても、
現実的には野蛮なものにしか過ぎなかった。
つまり、日本でいう市民とは「地球市民」という言葉が示すように、
理想的な存在であり、実体を持たない存在である。
しかし、西洋での「市民」とはそのようなものではない。
歴史の流れの中で形成された確固たる存在なのである。
佐伯啓思京大教授は喝破する。
「(西洋における)市民意識とは、いくぶん選良意識を含んでいるのである。
だから、場合によっては排他的となる。
(日本人の考えるような)『市民』といえば、
グローバルにどこまでも国境を越えて連帯できるなどという発想とは、
全く対極のものがここ(西洋)にはある」
『市民とは誰か』(カッコ内岩田)
どうであろうか。
日本と西洋の市民観の違い。
断っておくが、私は西洋を礼讃しているわけではない。
ただ、現実問題として市民観が違うということを指摘したいだけである。
つまり、西洋には大衆の延長線上にない市民が存在しているのである。
それに対して、日本では「市民」という呼称は大衆の美称にしか過ぎないのである。
http://wadachi.s7.xrea.com/dissertation/wadachi01_05.html
これは メッセージ 29645 (zu_zu_33 さん)への返信です.
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