>織田信長
投稿者: gurit_gogo 投稿日時: 2005/12/02 13:20 投稿番号: [223889 / 232612]
>私怨から復讐したとの通説は天皇を中心とする歴史観から国民の目を逸らせるための歴史学者の誘導ではないかと私は思っています。
戦前の皇国史観と、この史観の反対にある(はず?)の唯物史観において、信長はどのように位置付けられているかというと、
どちらの史観でも、織田信長は「偉い人物」なのだそうです。
信長の功績については
皇国史観からすると、
・足利幕府を弱体化させ
・地位が低下していた朝廷の権威を高めた
(ゆえに明智光秀は朝廷に逆らった、「逆賊」)
唯物史観からすると、
・伝統的秩序を破壊(反天皇の立場から、朝廷の権威を下げた。)
・中世から近世へ移行させたとする、歴史的発展段階論を証明するヒーロー
余談ですが、信長と宗教について。
足利時代は幾多の混乱をへて幕府が弱体化し、下克上の世となり、諸国は群雄割拠し、日本はばらばらになりました。
これに対して天下に武を布き、軍事力を背景に日本の統一を図ろうとしたのが信長です。
信長が弾圧した勢力は戦国大名、そして宗教勢力としての加賀・石橋山の本願寺、比叡山延暦寺などの寺社勢力です。
しかし信長は無神論者の立場で宗教勢力を弾圧したわけではありません。彼はよく無神論者と言われていますが、これはまったくの誤りで、幼少のときから、説明できない不思議な体験を重ね、
宗教勢力が政治に口を出すことに対して、信長は異議を唱え、関与するなと武力を背景に牽制し、それでも従わない宗教勢力に対して徹底的な弾圧をしました。
その宗教勢力の最たるものの一つに、一向宗がいました。
一向宗の信徒は僧、武士、そして百姓と、数百万の勢力を誇り国政に口をはさみます。
さらに一向宗は戦って死ねば極楽浄土へいけると教えましたから、心のそこから信長を憎み、命を落とすことを進んで行いました。
天正伊賀の乱などでは数十万の一向宗が徹底的にはむかい、信長は文字通り根絶やしにしています。
信長と対立した戦国大名の朝倉家が後見役を務める延暦寺はそれ以前から歴史上たびたび政治に口を出し、政治をゆがめていました。
そのため何度も信長は延暦寺に対して警告を発しましたが、最後まで信長とは対立しました。これが延暦寺焼き討ちに至りました。
しかし一方で信長は宗教を保護します。それもカトリックだけでなく寺社勢力に対しても優遇します。
その優遇された寺社勢力は、政治に関与することから手を引いたからです。政治にかかわらない信仰、宗派は信長も加護しています。けっして伝統的な権威を否定したわけではありません。
京都には古い木造建築物がたくさんありますが、ごく一部を除いては、今現存するものは16世紀後半からのもので、奈良と比べれば比較的「新しいもの」ばかりです。応仁の乱は寺社勢力の伸張と勢力争いを増長し、京都を舞台に、血で血を洗う、宗教戦争が巻き起こりました。そのため、対立する宗派の拠点となる神社・仏閣はことごとく火をかけられ、灰燼と化しました。現代でも宗教対立が果てしなく、激しく、すさまじいものであることがわかりますが、戦国時代はまさにそのような宗教対立が日本史上最高潮に達していた時代でもありました。
圧倒的な軍事力を背景に信長は宗教対立に終止符を打ち、政治に関与しようとする宗教勢力を抑制しようとしていました。石橋山本願寺とは長年対立し信長の力では抑え込むことはできませんでしたが、それでもなんとか和平に漕ぎ着け、石橋山本願寺が根城とした大阪から撤退させました。陸海運に適したこの地は豊臣時代を通じて一大経済圏変貌を通じる基礎となりました。
秀吉−家康も、信長に倣い宗教政策を引き継ぎ、特に家康は檀家制度を悪用し、もの見事に江戸時代を通じて宗教の形骸化を実現しました。日本的政教分離政策といえます。
近世を通じて日本では激しい宗教対立も再燃することなく、宗教が政治に関与をしなくなったおかげで、対立に注がれる膨大なマイナスなパワーを、前向きのパワーに回すことができ、300年近く太平世を謳歌することができたわけです。
戦前の皇国史観と、この史観の反対にある(はず?)の唯物史観において、信長はどのように位置付けられているかというと、
どちらの史観でも、織田信長は「偉い人物」なのだそうです。
信長の功績については
皇国史観からすると、
・足利幕府を弱体化させ
・地位が低下していた朝廷の権威を高めた
(ゆえに明智光秀は朝廷に逆らった、「逆賊」)
唯物史観からすると、
・伝統的秩序を破壊(反天皇の立場から、朝廷の権威を下げた。)
・中世から近世へ移行させたとする、歴史的発展段階論を証明するヒーロー
余談ですが、信長と宗教について。
足利時代は幾多の混乱をへて幕府が弱体化し、下克上の世となり、諸国は群雄割拠し、日本はばらばらになりました。
これに対して天下に武を布き、軍事力を背景に日本の統一を図ろうとしたのが信長です。
信長が弾圧した勢力は戦国大名、そして宗教勢力としての加賀・石橋山の本願寺、比叡山延暦寺などの寺社勢力です。
しかし信長は無神論者の立場で宗教勢力を弾圧したわけではありません。彼はよく無神論者と言われていますが、これはまったくの誤りで、幼少のときから、説明できない不思議な体験を重ね、
宗教勢力が政治に口を出すことに対して、信長は異議を唱え、関与するなと武力を背景に牽制し、それでも従わない宗教勢力に対して徹底的な弾圧をしました。
その宗教勢力の最たるものの一つに、一向宗がいました。
一向宗の信徒は僧、武士、そして百姓と、数百万の勢力を誇り国政に口をはさみます。
さらに一向宗は戦って死ねば極楽浄土へいけると教えましたから、心のそこから信長を憎み、命を落とすことを進んで行いました。
天正伊賀の乱などでは数十万の一向宗が徹底的にはむかい、信長は文字通り根絶やしにしています。
信長と対立した戦国大名の朝倉家が後見役を務める延暦寺はそれ以前から歴史上たびたび政治に口を出し、政治をゆがめていました。
そのため何度も信長は延暦寺に対して警告を発しましたが、最後まで信長とは対立しました。これが延暦寺焼き討ちに至りました。
しかし一方で信長は宗教を保護します。それもカトリックだけでなく寺社勢力に対しても優遇します。
その優遇された寺社勢力は、政治に関与することから手を引いたからです。政治にかかわらない信仰、宗派は信長も加護しています。けっして伝統的な権威を否定したわけではありません。
京都には古い木造建築物がたくさんありますが、ごく一部を除いては、今現存するものは16世紀後半からのもので、奈良と比べれば比較的「新しいもの」ばかりです。応仁の乱は寺社勢力の伸張と勢力争いを増長し、京都を舞台に、血で血を洗う、宗教戦争が巻き起こりました。そのため、対立する宗派の拠点となる神社・仏閣はことごとく火をかけられ、灰燼と化しました。現代でも宗教対立が果てしなく、激しく、すさまじいものであることがわかりますが、戦国時代はまさにそのような宗教対立が日本史上最高潮に達していた時代でもありました。
圧倒的な軍事力を背景に信長は宗教対立に終止符を打ち、政治に関与しようとする宗教勢力を抑制しようとしていました。石橋山本願寺とは長年対立し信長の力では抑え込むことはできませんでしたが、それでもなんとか和平に漕ぎ着け、石橋山本願寺が根城とした大阪から撤退させました。陸海運に適したこの地は豊臣時代を通じて一大経済圏変貌を通じる基礎となりました。
秀吉−家康も、信長に倣い宗教政策を引き継ぎ、特に家康は檀家制度を悪用し、もの見事に江戸時代を通じて宗教の形骸化を実現しました。日本的政教分離政策といえます。
近世を通じて日本では激しい宗教対立も再燃することなく、宗教が政治に関与をしなくなったおかげで、対立に注がれる膨大なマイナスなパワーを、前向きのパワーに回すことができ、300年近く太平世を謳歌することができたわけです。
これは メッセージ 223884 (rachi_yamero さん)への返信です.