三井寺と新羅三郎 源 義光 2/2
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/05/29 00:09 投稿番号: [204999 / 232612]
三井寺は天智天皇の孫であり、大友皇子の息子である大友与多王が創建したものですが、この寺の境内に、新羅善神像という秘仏(新羅明神)があるそうですね。
この新羅明神は親新羅派の天武天皇が、自身の手によって暗殺した天智天皇と、戦って命を奪った大友皇子の無念から生じる天武天皇への怨霊を封じるためのものだそうです。
だから天智天皇につながる大友与多王が創建したお寺に、新羅明神があるそうです。
(もともと新羅明神のあるところに三井寺を建てさせたという見方もあります)
八幡太郎 義家の弟である新羅三郎 義光。
新羅三郎 源 義光のお墓がなぜ三井寺にあるのか、またなぜ義光は新羅三郎と呼ばれたのか、肝心の理由がどうしても思い出せません。
(検索してみたら、この新羅明神の前で元服したからなんだそうです。)
よみ:みなもとのよしみつ
時代:平安時代
年代:1045年〜1127年
内容:平安後期の武将。新羅明神の前で元服したので新羅三郎と呼ばれた。父は頼義。義家の同母弟。弓馬の達人で左衛門尉に在任して京にあった時、後三年の役で兄義家が陸奥で苦戦していることを知り、救援に赴くことを朝廷に願い出たが許されず、1087年官を辞して馳せ参じた。義家と共に家衡、武衡らを破り帰京。その後常陸介・甲斐守を歴任した。また義光は笙をよくしたが、これは豊原時忠に学び、交丸という名器を授けられた。ところが陸奥国へ下向の時これを携行したが、逢坂関に彼を見送った時忠が別れを惜しんで帰らないので交丸を時忠に返した 。
因みに、義光の兄である義家は父 頼義とともに前九年の役で陸奥の王者 安倍頼義、貞任父子を倒します。貞任の弟の重任という人か、宗任が西日本に配流されます。この子孫にあたる人が安倍晋三氏なんだそうです。
ところで。
大友皇子は、天皇に即位していたでしょうか?
実は明治政府は、大友皇子に弘文天皇という諡号(しごう)を送っています。
天智天皇の後に即位しているのは天武天皇とされていますが、明治政府は、天智天皇の後に大友皇子が即位し弘文天皇がいたとしています。
そうしますと壬申の乱は、弘文天皇と大海皇子の戦いであり、大海皇子は弘文天皇を死に追いやって、力づくで即位(要は王位簒奪)したということになります。
晩御飯は、そら豆のポタージュと味噌ラーメンでした。
一度もそら豆のポタージュを食べたことが無いので、本当の味を知りません。
これは メッセージ 204997 (komash0427 さん)への返信です.
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