ミャンマー②
投稿者: ringo_rn2 投稿日時: 2005/05/23 01:00 投稿番号: [204234 / 232612]
実はミャンマー(旧ビルマ、1989年に国名を変更。それ以前を記す場合はビルマと表記。)は「日本人より日本を愛する国」といわれるほどの親日国家なのです。どうしてかって?ここミャンマーでは政府の高官からジャーナリストに至るまで、こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。われわれは深く日本に感謝しているのです。」
お世辞…?!でも何も自分たちの国の記念日にお世辞で“軍艦マーチ”はないでしょう。ということで、国際理解のため、私たち日本人もここでミャンマーについて勉強しておきましょう。
ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既にイギリス領であったインドの一州に組み込まれてしまいました。ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。
その後の悲劇をバー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」(バー・モウ『ビルマの夜明け』)
そしてビルマ人はというとチーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍の進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。
話は今から100年前、日本で言えば明治時代にあたります。日本は膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、国を挙げて戦いをしました。日露戦争(1904〜05)です。
当時、アジアの国々はほとんどがヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したようにビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます。
その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。」と主張したのです。
その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄されるなど、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がったビルマ青年の活躍を見ることは出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。
この若き志士たちこそ、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンたちタキン党の青年たちでした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍しているアウン・サン・ス−・チー女史のお父さんに当たる人です。
そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起のため日本への亡命を決意するのです。
お世辞…?!でも何も自分たちの国の記念日にお世辞で“軍艦マーチ”はないでしょう。ということで、国際理解のため、私たち日本人もここでミャンマーについて勉強しておきましょう。
ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既にイギリス領であったインドの一州に組み込まれてしまいました。ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。
その後の悲劇をバー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」(バー・モウ『ビルマの夜明け』)
そしてビルマ人はというとチーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍の進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。
話は今から100年前、日本で言えば明治時代にあたります。日本は膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、国を挙げて戦いをしました。日露戦争(1904〜05)です。
当時、アジアの国々はほとんどがヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したようにビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます。
その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。」と主張したのです。
その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄されるなど、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がったビルマ青年の活躍を見ることは出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。
この若き志士たちこそ、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンたちタキン党の青年たちでした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍しているアウン・サン・ス−・チー女史のお父さんに当たる人です。
そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起のため日本への亡命を決意するのです。
これは メッセージ 204233 (ringo_rn2 さん)への返信です.