小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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>>北朝鮮、米国務長官の訪朝要請

投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/05/21 15:36 投稿番号: [204096 / 232612]
>北は本音ではシナよりも米国と組みたいんだべな
米が拒むほどに北は擦り寄る
それだけ北はシナを警戒しているんだ
近親憎悪は予想以上だったくらいにしてな
米はそれを見越して焦らしていたんだべな

レス遅くなったけど、荒木氏も同様に考えているようですね。以下、諸君今月号から連載が始まった「月報 北朝鮮問題」の一部です。

(荒木的金正日観)
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  (中略)この約10年の間で、金正日にとって最も輝かしい時期は2000年6月13日から15日に平壌で行なわれた金大中・韓国大統領との首脳会談であったと言える。この会談は、その後、韓国内の北朝鮮に対する警戒心を大きく低下させることになった。

  私(荒木和博氏のこと)は今年3月初め韓国に行った折、ソウルと東海岸の中程のところにある「李承福記念館」に行ってみた。これは1968年に北朝鮮のゲリラが東海岸から侵入したとき押し入った家で、「共産党は嫌いだ」といったために虐殺された少年を記念して建てたものだが、この記念館の中にすら金正日と金大中が握手している写真や、例の「美女軍団」の写真が掲げられているのだ。思わず「ここまでやるか・・・・・」と溜息が出たのだが、これが韓国の現状である・北朝鮮の宣伝戦は見事に成功していると言える。

  この首脳会談は、金正日にとって、自らが主導した外交で始めての得点であった。これを踏み台にして、金正日は米クリントン政権との結びつきを強めていく。2000年10月8日、腹心の趙明禄・人民軍総政治局長が訪米、クリントン大統領、オルブライト国務長官らと会談する。半月後の10月23日にはオルブライトが訪朝、そのままでいけば年内にもクリントンが米国大統領として初の平壌訪問をするはずだった。金正日はこれで念願であった米国との直接交渉へと道を開くことができ、米国という後ろ盾があれば、もはやうるさい中国からもフリーハンドを得ることができると考えたのである。

  ところが、金正日は民主党の勝利を確信したあまり、中国に対し後ろ足で砂をかけるような行為をしてしまった。

  10月のオルブライト訪朝と同じ時期に、中国からは遅浩田国防相(当時)が朝鮮戦争への中国軍参戦50周年記念で訪朝していた。遅浩田はオルブライトが訪朝する前日に到着し、オルブライトが北朝鮮から韓国に向かった翌々日(26日)に帰国している。そして金正日が遅浩田に会ったのはオルブライトが北朝鮮を発った翌日の25日である。

  つまり、金正日は朝鮮戦争で北朝鮮を救ってくれた中国の国防相を無視して、戦った相手である「米帝」の外務大臣と会っていたのだ。

  遅浩田らは朝鮮戦争で戦死した毛沢東の息子毛岸英の墓参もしている。中華人民共和国にとっては建国翌年の参戦は失敗すれば自らの体制まで危機に陥りかねない賭けであったし、実際膨大な人的物的消耗をもたらした。当初は毛沢東以外の幹部はすべてが反対していた。それを押し切って行なった朝鮮戦争参戦の50周年記念で北朝鮮を訪れた国防相に対して、金正日は極めて冷たい扱いをしたのである。面子を重んじる中国人からすればこれ以上の侮辱はないだろう。そして、大統領選挙が終わったため、クリントンの訪朝は実現しなかった。

  あわてた金正日は翌2001年1月15日訪中する。江沢民、朱鎔基らと会談し、工場などを視察した。これが中国に崔殿後ろ盾を依頼するものであることは明らかだが、一連の流れからすれば中国の金正日に対する不信感は抜きがたいものになったろうし、そして訪中にあっては再度強く開放を迫ったはずだ。

  このような外交のやり方は金日成時代には考えられなかった。金日成の生前は金正日が内政の実権を握っていたときでも外交は父親がやっていた。金正日はそのコンプレックスから抜け出したい余り米国傾斜をして失敗したのである。
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