寺越事件を読む(5)
投稿者: ringo_rn2 投稿日時: 2005/05/21 01:09 投稿番号: [204011 / 232612]
電脳補完録さまより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3952
投稿者 trycomp 投稿日時 2005-5-19 19:30:42 (167 ヒット)
昭和62年、24年振りに北朝鮮から外雄さん、武志さんの生存を知らせる手紙が届き、友枝さんは社会党代議士嶋崎譲氏の斡旋で訪朝する。そして、北朝鮮と社会党代議士の連携によって「人道的水難救助」の物語が作られていく。漂流していた3人を通りがかった北朝鮮の船舶が救助し、その後、3人は北朝鮮公民として差別もされず幸せに暮らしている、というフィクションである。
そのフィクションを打ち破ったのが、安明進氏の証言である。
安明進氏は新著「新証言・拉致」で寺越事件に関してこう証言している。
1988年11月、呉求鏑教官による航海講座の授業中に、日本人拉致について詳しく話を聞く機会があった。呉教官自身が実行犯であった寺越武志さんら三人の拉致について知ったのもそのときだった。
呉教官は釣りが趣味で、とくに鱒(朝鮮語読みで「ソンオ」)が好きなことが知られていたので、学生の間では「ソン教官」で通っていた。海上訓練の最中にも釣り糸を垂れるほど、無類の釣り好きだったようだ。当時は六〇歳くらいで、航海講座の副講座長という立場にあった。現在は引退し、平壌市内光復通りの三号庁舎アパートに住んでいるはずである。
金正日政治軍事大学に教官として赴任する前、呉教官は清津連絡所にいた。60年代初めから20年近く工作員として日本への潜入を繰り返し、連絡所の指揮官を務めるまでになつた。清津連絡所が行った対日非合法活動をもっとも知る人物と言えるだろう。
ちなみに90年頃の清津連絡所の規模は、工作月が約100名いて、それぞれが4名からなる「組」に所属していた。つまり同連絡所にはそうした組が25組、さらにその「組」を8〜10組ずつ束ねた組織単位として「方向」というものが三つあった。
講座の最中にあった呉教官と学生のやりとりで記憶にあるのは、次のようなものだ。
呉教官 わが国の海岸線は単純だが、日本の海岸は凸凹はあるが砂浜が多いので、地形を見て航海することが容易ではない。(韓国の)江原道は海岸がすぐ山につながっているから航海が容易だ。
学生 教官、日本によく侵入したのでしょう。
呉教官 そうだ、よく行ってきた。俺は日本だけに行って南(韓国)には行っていない。
学生 丁教官が(日本人を)拉致したと言っていましたが、教官のときも拉致がありましたか。
呉教官 俺たちもたくさんやった。俺が元祖だ。俺たちがしたのが一番先だろう。196X年、ノト(能登)半島に入って俺たちは三人拉致してきた。
学生 そのときにも拉致していたのですか。その話をしてください。
呉教官 だめだ。講義を進めなくては……少しだけ話してやろう。
(拉致当日の)夜、日本の海岸に船の明かりを消して低速で侵入していった。しかし、思いがけない場所から小さな船が突然現れ、大声を出して何か言ってきたのだ。声で相手が日本人だとすぐにわかった。こうしたときは、その場で状況判断をしなければならない。任務は遂行しなければならないが、目の前に人がいる。お前たちはどうする。
学生 殺さなければなりません。
呉教官 子供がいたらどうする。
学生 ・・・・。
呉教官 子供一人のために革命事業を犠牲にするのか。
そのときも子供がいたんだ。たとえ相手が子供でも殺さなければならない。しかし、その場で殺して遺体を放置すれば次に侵入するときに疑われる。疑われない場所まで船に乗せ、そこで殺して捨てなければならない。
それで、こちらの船に乗り移らせようと何度も「上がってこい」と叫んだんだが、なかなかきかなかった。そのうち小さな子供は怖がって泣きだした。その泣き声が大きかったので、その場で子供をかばつていた男をまず射殺した。その後、ぶるぶる震えている子供と、もう一人の大人を乗り移らせ、死体も乗せた。
そして、彼らの船が証拠として残らないように、こちらの船を一度後進させてから、その船を轢き潰したのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下、電脳さんにアクセスしてくださいませ。
ほんとになんてひどいことをするんだろう。
寺越武志さんはどれほど恐れていることだろう。
お母さんも本当にいつまでも報われない。
ひどい。
菌正日!寺越さんを返せ!返せ!返せ!
卑怯豚!臆病豚!
オンナ狂い変態豚!
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3952
投稿者 trycomp 投稿日時 2005-5-19 19:30:42 (167 ヒット)
昭和62年、24年振りに北朝鮮から外雄さん、武志さんの生存を知らせる手紙が届き、友枝さんは社会党代議士嶋崎譲氏の斡旋で訪朝する。そして、北朝鮮と社会党代議士の連携によって「人道的水難救助」の物語が作られていく。漂流していた3人を通りがかった北朝鮮の船舶が救助し、その後、3人は北朝鮮公民として差別もされず幸せに暮らしている、というフィクションである。
そのフィクションを打ち破ったのが、安明進氏の証言である。
安明進氏は新著「新証言・拉致」で寺越事件に関してこう証言している。
1988年11月、呉求鏑教官による航海講座の授業中に、日本人拉致について詳しく話を聞く機会があった。呉教官自身が実行犯であった寺越武志さんら三人の拉致について知ったのもそのときだった。
呉教官は釣りが趣味で、とくに鱒(朝鮮語読みで「ソンオ」)が好きなことが知られていたので、学生の間では「ソン教官」で通っていた。海上訓練の最中にも釣り糸を垂れるほど、無類の釣り好きだったようだ。当時は六〇歳くらいで、航海講座の副講座長という立場にあった。現在は引退し、平壌市内光復通りの三号庁舎アパートに住んでいるはずである。
金正日政治軍事大学に教官として赴任する前、呉教官は清津連絡所にいた。60年代初めから20年近く工作員として日本への潜入を繰り返し、連絡所の指揮官を務めるまでになつた。清津連絡所が行った対日非合法活動をもっとも知る人物と言えるだろう。
ちなみに90年頃の清津連絡所の規模は、工作月が約100名いて、それぞれが4名からなる「組」に所属していた。つまり同連絡所にはそうした組が25組、さらにその「組」を8〜10組ずつ束ねた組織単位として「方向」というものが三つあった。
講座の最中にあった呉教官と学生のやりとりで記憶にあるのは、次のようなものだ。
呉教官 わが国の海岸線は単純だが、日本の海岸は凸凹はあるが砂浜が多いので、地形を見て航海することが容易ではない。(韓国の)江原道は海岸がすぐ山につながっているから航海が容易だ。
学生 教官、日本によく侵入したのでしょう。
呉教官 そうだ、よく行ってきた。俺は日本だけに行って南(韓国)には行っていない。
学生 丁教官が(日本人を)拉致したと言っていましたが、教官のときも拉致がありましたか。
呉教官 俺たちもたくさんやった。俺が元祖だ。俺たちがしたのが一番先だろう。196X年、ノト(能登)半島に入って俺たちは三人拉致してきた。
学生 そのときにも拉致していたのですか。その話をしてください。
呉教官 だめだ。講義を進めなくては……少しだけ話してやろう。
(拉致当日の)夜、日本の海岸に船の明かりを消して低速で侵入していった。しかし、思いがけない場所から小さな船が突然現れ、大声を出して何か言ってきたのだ。声で相手が日本人だとすぐにわかった。こうしたときは、その場で状況判断をしなければならない。任務は遂行しなければならないが、目の前に人がいる。お前たちはどうする。
学生 殺さなければなりません。
呉教官 子供がいたらどうする。
学生 ・・・・。
呉教官 子供一人のために革命事業を犠牲にするのか。
そのときも子供がいたんだ。たとえ相手が子供でも殺さなければならない。しかし、その場で殺して遺体を放置すれば次に侵入するときに疑われる。疑われない場所まで船に乗せ、そこで殺して捨てなければならない。
それで、こちらの船に乗り移らせようと何度も「上がってこい」と叫んだんだが、なかなかきかなかった。そのうち小さな子供は怖がって泣きだした。その泣き声が大きかったので、その場で子供をかばつていた男をまず射殺した。その後、ぶるぶる震えている子供と、もう一人の大人を乗り移らせ、死体も乗せた。
そして、彼らの船が証拠として残らないように、こちらの船を一度後進させてから、その船を轢き潰したのだ。
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以下、電脳さんにアクセスしてくださいませ。
ほんとになんてひどいことをするんだろう。
寺越武志さんはどれほど恐れていることだろう。
お母さんも本当にいつまでも報われない。
ひどい。
菌正日!寺越さんを返せ!返せ!返せ!
卑怯豚!臆病豚!
オンナ狂い変態豚!
これは メッセージ 204006 (ringo_rn2 さん)への返信です.