>あったんじゃないの
投稿者: yokoresu2002 投稿日時: 2002/11/12 23:00 投稿番号: [20249 / 232612]
戦時中の売春婦についての基礎知識です。(コピペ)
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【歪曲の歴史】
1983年 吉田清治が「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」にて 従軍慰安婦を発表
1991年〜 朝日新聞より4回にわたって報道
1992年 訪韓していた宮沢首相は8回も謝罪し、真相解明を約束
1993年 河野官房長官が 関与を公表
これに対し
・済州新聞の許栄善記者が現地で調査し この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけ
それがフィクションであったことを著者(吉田清治)自身が認めた。
・政府の発表内容が、昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」であり、
その中では、民間業者が慰安婦を募集する際、
①軍部諒解の名儀を悪用、
②従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、
③誘拐に類する方法を使って警察に取調べられる
などの問題が多発しているので、業者の選定をしっかりし、
地方憲兵警察と連繋を密にせよと命じているが、
民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察の力でも充分な対応がとれきれなかった
と発言したのであった。
【境遇】
米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦からの聞き取りをもとに、
以下のような報告書を残している。
『女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000円の前借金を親に払って、
その債務を慰安所での収入で返還している。
経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月に1000〜2000円、
兵士の月給は15〜25円。』
『慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、・・・・
寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば
贅沢ともいえるほどであった。』
『慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は
朝鮮に帰ることを許された』
【証言】
売春婦達の証言に対し 一定性が無いことが判明している。
■ 黄錦周の証言から
・[日韓社会科教育交流団韓国を訪問]1997.夏期
「満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
何をするのかよく分からなかったのですが、
ソウルの工場か何かで働くのだろうと思っていました。
姉は家から離れて生活していていなかったので、私が代わって出ることになりました。」
・「黄錦周さんの証言を聞く会]2001.07.17 東京大学にて、
「14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、
皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。」
・国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 1996年1月4日
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、
未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。
そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったので抵抗しました。
私はまだ処女でした。
しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。
そのときに私は気を失いました。
そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。
・1997年12月5日(金)福岡市都久志会館ホ−ルにて
1912年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。
村の班長(日本人)に
「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、
奉公先の娘たちにかわって1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。
【韓国での従軍慰安婦】
韓国では隠蔽されているが、朝鮮戦争当時に 韓国に従軍慰安婦が多数いました。
(朴政権時代、東ソウルの漢江べりの高台に 「在韓米軍将兵慰安総合遊興村」
−通称・ウォーカーヒル−を設立した事実を知っているだろうか?)
また、現在も非武装地域(南北国境)付近の韓国軍の兵営にも慰安婦がいます。
【民間人の業者】
従軍慰安婦は 民間の業者によって経営されていました。
朝鮮人の慰安婦に対しては 殆どが 朝鮮人業者により 管理・運営されていました。
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【歪曲の歴史】
1983年 吉田清治が「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」にて 従軍慰安婦を発表
1991年〜 朝日新聞より4回にわたって報道
1992年 訪韓していた宮沢首相は8回も謝罪し、真相解明を約束
1993年 河野官房長官が 関与を公表
これに対し
・済州新聞の許栄善記者が現地で調査し この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけ
それがフィクションであったことを著者(吉田清治)自身が認めた。
・政府の発表内容が、昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」であり、
その中では、民間業者が慰安婦を募集する際、
①軍部諒解の名儀を悪用、
②従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、
③誘拐に類する方法を使って警察に取調べられる
などの問題が多発しているので、業者の選定をしっかりし、
地方憲兵警察と連繋を密にせよと命じているが、
民間の悪徳業者による「強制連行」を、軍が警察の力でも充分な対応がとれきれなかった
と発言したのであった。
【境遇】
米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦からの聞き取りをもとに、
以下のような報告書を残している。
『女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000円の前借金を親に払って、
その債務を慰安所での収入で返還している。
経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月に1000〜2000円、
兵士の月給は15〜25円。』
『慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿泊して、・・・・
寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば
贅沢ともいえるほどであった。』
『慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は
朝鮮に帰ることを許された』
【証言】
売春婦達の証言に対し 一定性が無いことが判明している。
■ 黄錦周の証言から
・[日韓社会科教育交流団韓国を訪問]1997.夏期
「満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
何をするのかよく分からなかったのですが、
ソウルの工場か何かで働くのだろうと思っていました。
姉は家から離れて生活していていなかったので、私が代わって出ることになりました。」
・「黄錦周さんの証言を聞く会]2001.07.17 東京大学にて、
「14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、
皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。」
・国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 1996年1月4日
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、
未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。
そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったので抵抗しました。
私はまだ処女でした。
しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。
そのときに私は気を失いました。
そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。
・1997年12月5日(金)福岡市都久志会館ホ−ルにて
1912年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。
村の班長(日本人)に
「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、
奉公先の娘たちにかわって1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。
【韓国での従軍慰安婦】
韓国では隠蔽されているが、朝鮮戦争当時に 韓国に従軍慰安婦が多数いました。
(朴政権時代、東ソウルの漢江べりの高台に 「在韓米軍将兵慰安総合遊興村」
−通称・ウォーカーヒル−を設立した事実を知っているだろうか?)
また、現在も非武装地域(南北国境)付近の韓国軍の兵営にも慰安婦がいます。
【民間人の業者】
従軍慰安婦は 民間の業者によって経営されていました。
朝鮮人の慰安婦に対しては 殆どが 朝鮮人業者により 管理・運営されていました。
これは メッセージ 20240 (mushukyou2000 さん)への返信です.